2012年9月2日

裸になりたい。

10年前を振り返れば、自分の弱さを乗り越えるために鎧を身にまとおうとしていた。それは不安に苛まれる青年に共通する行動なのだと思う。世界のことをもっとよく知り、知的にも心的にも武装し、自分の弱さを克服しようとする。そのような欲求を抱く青年は、僕は好もしいと思う。

でも、その頃から10年くらいの月日が経って思うのは、そのようにして鎧を身にまとった人たちは、ずいぶんと動きが鈍くなったなということ。それは自分を見ても、同じように歳を取った人々を見ても思う。心が震えることもなくなり、自分が一度築いた視点から離れることができない。そんな戦士に、鎧の上に張り付いた過去の勲章を剥がす勇気は、もはやない。彼にできるのは過去の反芻だけであり、それは老人と呼ぶべきだろう。

そのような戦士は、おそらく青年の頃よりも弱くなってしまっている。本当の強者は、裸で立っているのだ。素っ裸で、自分の二本の足で、その足裏で大地を踏みしめていられる者こそが、真に生きていると言えるのだ。青年として生きはじめてから10年経った僕は、ずいぶんと弱くなってしまったな、と思う。

無防備だった青年時代の僕は、ひょっとすると何かの一撃で死んでしまっていたかもしれない。いまの僕は、ちょっとやそっとのことでは逃げ出さない。斬りつけられたり傷めつけられたりしても、悲鳴をあげることはないだろう。それはある意味では強くなったのかもしれないが、生身の僕の体は、きっと鎧を幾重にもまとったことによって弱くなってしまった。

真に裸になって生きている人には、相手がぼろの布切れのままで生きているのか、鎧をまとって生きているのか、それとも鎧をはがしながらいきているのかは、一瞥しただけで分かるのだろう。そして、僕はまだ鎧をはがしはじめてさえいない。

これから僕がしていきたいことは、鎧を一枚ずつ剥がしていくこと。そして、裸になっていくことだ。それが僕が僕として真に生きるということなのだ。

僕らが生きている上では、とりわけ若い頃は、積み上げて生きざるをえない。若さゆえに、そしてサバイバルするためにも、それは現実的に避けて通ることはできない。でも、ふっと10代の頃のように生きるとは何かと真剣に考えた時に、20代の節目においていつも、「つみへらす」という、最初に知った時にはよく理解できなかった岡本太郎の言葉を思い出していた。

つみへらすとは、裸になるということなのだ。年齢などという常識にあえて縛られてみるとすれば、30歳からの10年という大切な時間を「つみへらす」ことに自覚的に生きる。そのようにして、僕は30代という時期に踏み出していくことになるだろう。

20代の終わりというのはもうすこし大人なのかなと思っていたけれど、最近思うのは、まだ小学校を卒業するくらいなんだなぁということ。世界は未だに知らないことだらけだし、僕は10代の青年時代よりもまして未熟になった。でも、そのような気持ちで中学校に踏み入るのは、なかなか悪くない。

鎧を剥がし終わり、最後の兜を取った後に見える自分の表情がどんなものなのか。それを楽しみに、また新たなステージに入ることにしよう。

(ま、とはいえ、僕はまだしばらく28歳なんですけどね・・・!)