2013年4月6日
閉塾から約一週間が過ぎ、残っていた仕事もほぼ片付けた。僕がいま語りたいことは、三作目となる『独学宣言 〜もう学校はいらない〜』(Amazon/印刷用(縦書PDF)/スマホ用(横書PDF))のあとがきに込めたので、興味のある人はそちらを読まれてください。これで最後の大仕事も終わり、肩の荷が下りた。さて。
この写真はオフィスを閉める時に撮った一枚。こんな小さなオフィスでも、最初に借りた時はそれなりに誇らしかった。仲間が増えて、それにあわせてオフィスを拡げた時期もあったが、結局、一度も移転することもなく、最後は始まりのこの部屋で終わった。
今思えば、僕は若かった。あまりに若かった。あの時に、あの決断を、こうしていたら……。そうした考えは、やろうと思えばキリなく思い浮かべられる。でも、そんなことに意味はない。六年間、その時々で最善を尽くしてきたのだ。その証はこのブログに残っている。
このブログを書きはじめた頃から、当然だが、このような結末を迎える可能性があることは想定していた。でも、どのような結末になるにせよ、命に火を灯すように生きる日々を書き残しておこうと決めていた。あまりブログを書けない時期は、その分だけ書籍に込めてある。丁寧に探してもらえれば、受験をはじめる前の18歳の頃から11年間後の今に至るまで、ウェブで僕の軌跡を辿ることができる。
若くないとできないことがある。若い時に、これ以上ないほど若いことができてよかった、と思う。もはや維新の志士気取りだったからね。しかも、結構、本気だった。自分たちがやらなければ、誰がやるんだ。そうした熱狂から醒めてみればバカらしくも感じられるが、でも、どんな無様な姿であれ必死で生きられてよかったと思う。
馬鹿の一つ覚えみたいに言ってるが、本当に、十代の頃からは決して想像することのできない日々だった。そうした生き方が可能なのだということを、今はまだ暗がりの中で、未来に希望を抱けずに生きている後の世代の人に伝えたいと思った。理由は単純で、僕が昔そうだった頃に、僕に力を与えてくれた人がいたから。
中でもとりわけ大きな力をくれた二人は、既にこの世から去ってしまった。二人とも戦争の経験者で、戦後の日本の復興を担った医師と教師だった。有名な人ではない。どこの街にでもいる老医師と老教師だ。でも、名もない人の人知れぬ努力によって、世の中はかろうじて成立していることを僕は彼らから学んだ。僕は、彼らにしてもらったことを、ただ真似たに過ぎない。
どんな無様な一生であれ、たいした功も成さず名も遂げなかった人生であっても、希望を抱いて必死で生きることには意味がある。宇宙の果てしない大きさにと比べれば、たとえばアメリカ合衆国の大統領ですらたいした意味はない。でも、誰に知られることもない一生であっても、精一杯生きた人生に比類なき意味を見出すことはできる。
言葉では伝えられないものがある。でも、生き様から、何かを感じ取ってもらえるとすれば、それなりに生きた意味を見いだせるのかもしれない。そのようにして書いてきた文章から、何かを感じ取ってもらえるならば、それだけで僕は十分に生きた甲斐があると思える。それが僕にできることであり、僕なりの人生の意味の見つけ方だったのだろうと今は思う。
閉塾の理由について触れておくと、僕が畳みたいと思った、ということ以上に語ることはない。最低限、塾生にはそれなりの説明をしたが、語り、書くことが僕の仕事だったのだから、言葉で理解してもらうことは難しいことではない。でも、言葉にできるものは、詰まるところ言葉にできるものでしかない。
先日、実家に帰った時にNHKで『余命1ヶ月の花嫁』という映画をやっていて、テレビで映画を見るのなんていつぶりだろうと思いながら何気なく見ていた。亡くなる直前のヒロインが遺したビデオレターを、葬式の後で受け取った彼氏が見るというシーンがあって、そこでテレビに映ったヒロインが「感謝しかない。いや、感謝という言葉だけじゃ表せない・・・」とすこし迷ってから「この気持ちを伝える言葉が、日本語にはありません」と言っていた。このシーンは泣けたね。泣けたけど、僕も似たような気持ちです。感謝という言葉では表せない。
だから、僕は残りの人生で、この想いを証明していこうと思います。言いたいことは、以上。みんな、これまでどうもありがとう。それではいつか、また会う日まで。
馬場祐平
閉塾にあたって
閉塾から約一週間が過ぎ、残っていた仕事もほぼ片付けた。僕がいま語りたいことは、三作目となる『独学宣言 〜もう学校はいらない〜』(Amazon/印刷用(縦書PDF)/スマホ用(横書PDF))のあとがきに込めたので、興味のある人はそちらを読まれてください。これで最後の大仕事も終わり、肩の荷が下りた。さて。
この写真はオフィスを閉める時に撮った一枚。こんな小さなオフィスでも、最初に借りた時はそれなりに誇らしかった。仲間が増えて、それにあわせてオフィスを拡げた時期もあったが、結局、一度も移転することもなく、最後は始まりのこの部屋で終わった。
今思えば、僕は若かった。あまりに若かった。あの時に、あの決断を、こうしていたら……。そうした考えは、やろうと思えばキリなく思い浮かべられる。でも、そんなことに意味はない。六年間、その時々で最善を尽くしてきたのだ。その証はこのブログに残っている。
このブログを書きはじめた頃から、当然だが、このような結末を迎える可能性があることは想定していた。でも、どのような結末になるにせよ、命に火を灯すように生きる日々を書き残しておこうと決めていた。あまりブログを書けない時期は、その分だけ書籍に込めてある。丁寧に探してもらえれば、受験をはじめる前の18歳の頃から11年間後の今に至るまで、ウェブで僕の軌跡を辿ることができる。
若くないとできないことがある。若い時に、これ以上ないほど若いことができてよかった、と思う。もはや維新の志士気取りだったからね。しかも、結構、本気だった。自分たちがやらなければ、誰がやるんだ。そうした熱狂から醒めてみればバカらしくも感じられるが、でも、どんな無様な姿であれ必死で生きられてよかったと思う。
馬鹿の一つ覚えみたいに言ってるが、本当に、十代の頃からは決して想像することのできない日々だった。そうした生き方が可能なのだということを、今はまだ暗がりの中で、未来に希望を抱けずに生きている後の世代の人に伝えたいと思った。理由は単純で、僕が昔そうだった頃に、僕に力を与えてくれた人がいたから。
中でもとりわけ大きな力をくれた二人は、既にこの世から去ってしまった。二人とも戦争の経験者で、戦後の日本の復興を担った医師と教師だった。有名な人ではない。どこの街にでもいる老医師と老教師だ。でも、名もない人の人知れぬ努力によって、世の中はかろうじて成立していることを僕は彼らから学んだ。僕は、彼らにしてもらったことを、ただ真似たに過ぎない。
どんな無様な一生であれ、たいした功も成さず名も遂げなかった人生であっても、希望を抱いて必死で生きることには意味がある。宇宙の果てしない大きさにと比べれば、たとえばアメリカ合衆国の大統領ですらたいした意味はない。でも、誰に知られることもない一生であっても、精一杯生きた人生に比類なき意味を見出すことはできる。
言葉では伝えられないものがある。でも、生き様から、何かを感じ取ってもらえるとすれば、それなりに生きた意味を見いだせるのかもしれない。そのようにして書いてきた文章から、何かを感じ取ってもらえるならば、それだけで僕は十分に生きた甲斐があると思える。それが僕にできることであり、僕なりの人生の意味の見つけ方だったのだろうと今は思う。
閉塾の理由について触れておくと、僕が畳みたいと思った、ということ以上に語ることはない。最低限、塾生にはそれなりの説明をしたが、語り、書くことが僕の仕事だったのだから、言葉で理解してもらうことは難しいことではない。でも、言葉にできるものは、詰まるところ言葉にできるものでしかない。
先日、実家に帰った時にNHKで『余命1ヶ月の花嫁』という映画をやっていて、テレビで映画を見るのなんていつぶりだろうと思いながら何気なく見ていた。亡くなる直前のヒロインが遺したビデオレターを、葬式の後で受け取った彼氏が見るというシーンがあって、そこでテレビに映ったヒロインが「感謝しかない。いや、感謝という言葉だけじゃ表せない・・・」とすこし迷ってから「この気持ちを伝える言葉が、日本語にはありません」と言っていた。このシーンは泣けたね。泣けたけど、僕も似たような気持ちです。感謝という言葉では表せない。
だから、僕は残りの人生で、この想いを証明していこうと思います。言いたいことは、以上。みんな、これまでどうもありがとう。それではいつか、また会う日まで。
馬場祐平
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