2008年4月25日

ちいさく握りしめる

 1日に2人続けて大切な後輩の話を聞いた。2人とも就活の真っ最中で、人生の行き先に不安を感じていた。リクナビに登録すらしたことのない僕の就活論が役に立つかは半信半疑だったが、自信なげに感じられる彼女たちをとにかく勇気付けたかった。

 彼女たちがそういう状況にあるのを聞いたのは庄司からだった。大学時代のパートナーだったあいつは今やエリートサラリーマン。とはいえ就活では人一倍苦労してた。その経験から、いわゆる「就活相談」は十分にしてくれたはず。そう信じて、僕は僕なりのノーマルではない「就活論」を語った。

 すこし前に「早大5年生による就活論」と題した一連のエントリーを書いた。内容は今でも同じように思ってるけど、悩んでいる人たちを目の前にして、僕の書いた文章は、本当に苦しんでいる人には届かなかっただろうな、とあらためて思った。でも、やっぱり届けたい。だからそこにひとつ付け足してみようと思う。

 不確定な未来を前にして、僕らはいつも身をすくめる。僕だってそうだ。起業なんてしてみたものの、吹けば飛ぶような零細事業。それでも、その中で精いっぱい生き、楽しくやれている。なんでそんなに楽しそうなの?とかなり頻繁に聞かれる。

 僕だって不安がないわけじゃないよ。むしろ人一倍の危機感を抱いて生きているつもりだ。でも未来のことは誰にも分からないわけだから、不安に思ったり、危機感をもったりするのは当然だろう。その中でも僕らは手探りで生きていく。自分は何をしたいんだろう? どうやって生きていけばいいのだろう? どの会社が自分にとってベストなのだろう? だが、それらは見つけられるようで、「思い込み」以外では決して見つけられないものだと僕は思う。

 「私にはこれしかない」と思い込んで勝利を掴める強さを持つ人はそれでいい。就活でも、夢を追いかける時でも、そういう「思い込み」が力を発揮して上手くいくことはある。でも、ほとんどの人は自分で思い込んだほど上手くいくわけじゃない。すると、いわゆる「挫折」や「紆余曲折」を経験することになる。

 僕の人生を振り返っても紆余曲折の連続だ。大学に入る時は政治家になりたかった。熱い人生を送りたかった。入学後しばらくすると研究者になりたくなった。一生、本に囲まれていたかった。次の夢は小説家だった。人の心をふるわせることに喜びを見出した。それぞれで「俺はこれしかない」と思って生きようとしていた。なのに今、僕は思いもよらぬ「起業家」という道を歩むことになった……。

 今に至るまでの紆余曲折は、挫折というほどの経験ではなかった。でもその時々の「夢」を諦めて次に進もうとする時、いつも少なからぬ痛みを伴った。それでも僕はその時々において決して後悔することのない時間をすごしてきた。

 このことから僕はひとつの結論を導き出した。「やりたいこと」は変わり続ける、ということだ。

 大学に入る前、大学がどんな場所かなんてまったく分からなかった。その場所に踏み込んでみて、はじめて知ることができた。踏み込み続けたら、景色はどんどん変わっていった。環境が変われば見えてくるものも変わる。たぶん、就職も同じだろう。

 踏み込んだ場所で全力を出し切れれば、次の一歩を踏み出す力がわいてくる。年功序列・終身雇用が崩れつつある今、力さえあればどんな環境に置かれても独力で未来を切り拓くことはできるはずだ。

 全力を発揮するためには、そこで「自分自身を生きている実感」が必要だ。どんな場所であれ、「自分自身を生きている実感」さえあれば、なんとか(たいていは楽しく)やっていけるだろう。「自分自身を生きている」というリアルな感覚こそ、努力の原動力になり、未来を信じる支えになると僕は思う。

 じゃあその自分自身ってなんだ? っていうのが肝心なところだ。そして、これが今日いちばん伝えたいことだ。みんな忙しいのに、こんな長いエントリーを読み返すのは面倒だと思う。だから、次の一行だけでいい、立ち止まって読んでほしい。いいかな。

 「自分」は、こぶしで握れるくらいわずかしか掴めない。

 ひとりの人間というのは複雑怪奇な有機体で、それがどんな人間かなんて誰にも分かりっこない。総体としての人間を把握するのは限りなく不可能に近いことだと僕は思う。当の自分ですら、自分を理解することができるのはごくわずかでしかない。だからこそ、そのわずかな部分だけはしっかり握っていたいと僕は思ってる。そのわずかな部分さえしっかり握っていれば、自分自身を生きているという実感を得られると思うからだ。

 みんな「自分」をいろんな言葉で規定しすぎていると思う。私はこういう人間です、とかね。でも言葉なんかで定義しきれるほど、僕らは単純に生きてはいない。だから、自分の定義なんてしない方がいい。その代わりに、自分にとって大切なものを定義しよう。それも、こぶしで握れるくらい小さく。それこそが、自分自身を生きている実感の源泉になる。

 たくさんのものを持ち歩こうとすると動けなくなる。だから、その小さな定義だけを握って歩いていけばいい。どんな荒波に飲まれても、それだけは手放さない大切なもの。それさえ持っていれば、なんとか自分を励ますことができるもの。それだけは絶対に手放しちゃいけないもの。

 「やりたいこと」は変わり続けても、絶対に手放しちゃいけないものが誰にだってある。そこだけは誰にも渡さないためにも、こぶしの中に入るくらい小さくして、ぎゅっと握りしめていよう。何を握るのかを決めるのは、自分だ。その時々に応じて新しいものを握りなおしてもいい。

 何を握るか、その選択の決定権こそが、僕らが自分自身を生きている実感を得るために残された最後の砦だと思う。「自分の大切なもの」の決定権を人に委ねた瞬間、人生は自分の手からこぼれ落ちてゆく。委ねる先が親であれ、友であれ、恋人であれ、会社であれ、世界であれ、それは変わらないだろう。

 自分の人生を何かに委ねて失敗したら、委ねた相手を恨みたくなる。親を恨んだり、友を恨んだり、恋人を恨んだり、、会社を恨んだり、社会を恨んだり……。それは哀しい。そうした人を見るにつけ、僕はそんなふうに造られている世界を恨みそうになるほどだ。

 自分の人生を自分で握っていれば、どんな経験でも恨まず後悔せず、生きていくことができる。それが僕の言う「自分自身を生きている実感」だ。自分自身を生きるために、自分の大切なものだけは手放さないようにしよう。誰に批判されても、何を言われても、それだけは手放さないようにしよう。それさえ握りしめていたら、どんな環境だってなんとかやっていけるはず。

 そういうことを、相談してくれた彼女たちに僕は伝えてみた。聴いた翌日から使えるような即効性のテクニックじゃない。でも遠くから聞こえるBGMのように、かすかにでも僕の声が彼女たちを元気付けたらいいな、と思う。元は素敵なんだ。スマイルさえ取り戻せば、なんとかやっていけるものさ。


 ところで。


 あなたはそのこぶしに何を握りしめていますか? よかったら、こんど酒を飲む時にでも聞かせてください。


 【フォト】 吉そば@高田馬場。僕はよくそばを食べる。一人で昼飯を食べるときは、8割くらいそばだと思う。早稲田にいる時は「はせ川」(大隈講堂の脇の立ちそば)、高田馬場にいる時は「はせ川」の支店として少し前にオープンした「ますや」(ツタヤの向かい)にいく。この写真を撮った時は、昼そば、夜そば、朝飯は前に載せた通りで、そしてまた昼そば、という日々だった。