2008年2月12日

利害関係のない人間関係

 というタイトルの文章が、2年前、大学のサークル(政友会)の卒業文集に載った。書いたのは僕がもっとも世話になった先輩の一人だった。読みながらそれまでのことを思い出して胸が熱くなり、涙があふれてきたのを覚えている。それ以来、僕はその文章を何十回となく読み返しながら「利害関係のない人間関係」を大切にしようと思ってきた。

 しかし自分で事業を起こして金を稼ぐ段になると、それだけを言ってもいられない。利益を出さなきゃならないし、人を雇ったら給料を払わなきゃならない。そうして生まれる人とのつながりって「利害関係のある人間関係」以外の何物でもない。周りの人をビジネスに巻き込もうとしている今、築いてきた「利害関係のない人間関係」が崩れそうに思えた。

 でも、いや違う、と僕は考え直した。

 そんなことはない。働きながら輝いている奴はいる。もっと充実感をもって働けるはず。

 6年前の今頃、大学進学を考えはじめた。その理由は「おもしろい人間に出会いたい」ということだった。以前にも書いた「自分創り」をしていくために、リアルな人間から学びたいという思いが強かった。頭の良さはともかく、おもしろい人間の数と多様さにおいて、早稲田はどこにも引けをとるまいという思いを当時から持っていた。

 社会に出てからと違い、大学時代の人間関係で金銭が動くことは少ない。だから人と深く付きあおうとすることはイコール「利害関係のない人間関係」につながると思ってきた。でも振り返ってみると、僕は自分の「利害」をベースに他者と付き合ってきたと思う。それを意識したにせよ、しなかったにせよ。

 「尊敬する先輩」というのも「学びたい」という中に利害があった。「愛する後輩」というのも「可愛い奴といると楽しい」という中に利害があった。こうした判断のベースにあるのは「人間の価値」と言えると思う。もちろん人間は売り物ではないから価値は常に変わるし、見る人によっても評価は違う。でも各自の「価値」と評価の「基準」は間違いなく存在する。

 ただ、価値や利害というとマイナスイメージが先行するけれど、それ自体は決して悪いことではないと思う。人間関係は「いいな」と思える価値を見出してはじめて築かれる。だから逆に、自分にどんな「価値」が備わっていて、他者に提供できるのかを意識して生きることが、他者と付き合う上で大切なんじゃないだろうか。それは他者を尊重するということでもあるはずだ。

 僕らの周りには寂しさを紛らわすだけの人間関係が多すぎる。自分の価値を意識していないから、他者の価値も考えられない。部活もせずにぶらぶらしていた僕の中高時代は、単に「いるだけ」の人間関係の中で多くの時間を過ごしてきた。それは「利害関係のない人間関係」では断じてなかったし、「利害関係のある人間関係」だとしても虚しいものだった。価値を意識していない人間関係からは何も生まれなかった。

 自分の価値は何か。横にいるあいつに何をしてやれるのか。今の自分が求める価値を意識し、そのためにどんな行動が必要なのかを考え、結論が出たら実行していく。こうした行動を、大学での5年間は自由にさせてくれた。金銭の授受がないから、恐れることなくトライ・アンド・エラーを繰り返すことができた。その結果、大学では「利害関係のない人間関係」を少しずつ開拓していくことができた。

 大切なのは、価値を互いに認め合い、生かし合うことだと思う。そのために、価値の方向性が同じ人々を見つけ、そうした人々と共に過ごすことを目標にすればいい。

 横に誰かがいて、それを分かち合えるという関係は生きている中でかけがえのないものだ。それは「こいつと飲んでいると楽しい」くらいのささいな感情かもしれないし、涙を流せるような大きなイベントの成功かもしれない。ただとにかく、その喜びや悲しみを分かち合うことで二人の間に絆が生まれる。

 そこではじめて本当に「利害関係のない人間関係」の感動を味わうことができる。こいつといると最高だ、って何の留保なしに言える喜びを感じられる。

 はじめから利害関係なしに人とつきあうなんて、できっこない。もしあり得たとしても、それはポリシーもプライドもない根無し草同士の慰め合いに過ぎない。でも、僕らは利害関係からはじまり、利害関係のないところまでたどり着くことはできる。

 自分の価値を意識して生きること。そうすると自分がどうなりたいかが見えてくるし、何をすればいいのかも分かってくる。その価値を高めていけば、それを「いいな」と思ってくれる人々は自然と集まってきてくれる。

 メガピは組織として「人とつながる」ことを価値にしていたから、それに共感してくれた人がたくさん集まってきてくれた。リアルな人間関係が分断されがちなこの時代において、いくつかの越えるべき壁はあったにせよ、「人とつながる」ことを掲げて人が集まったのは必然であったとも思う。なにより理念云々ではなく、そこにいた人たちが素敵だった=価値があったのだけれどね(それについては後日書こう)。

 まぁでもとにかく、そうした活動の結果、利害関係のない人間関係も生まれたと僕は信じている。

 社会に出たらそうはいかないと言われる。金や自分のポジションを気にしなくちゃならない。失敗したら経歴に後々まで残る傷がつく。「価値」の基準が大学時代と大きく変わってしまい、損得を意識せずに人と付うことはできなくなる。だから「利害関係のない人間関係」という響きに輝きがあるのだ、と。

 でも僕はそうは思わない。社会に出たら責任が増すぶんトライ・アンド・エラーはやりにくくなるだろう、でも、その制約の中でも利害関係のない人間関係を作ることはできるはずだ。そしてそれこそが、ビジネスをしていく醍醐味なのではないだろうか。

 僕の塾にしてもそうだ。今やりがいを持っている。それだけの価値があると信じている。そのことに共感してくれる人たちと一緒に働き、そうしてあるゴールに達した時には、仲間として涙することだってできるだろう。留保なく、ここで働けて、お前と一緒にやれて最高だ、って思える瞬間もあるだろう。

 「利害関係のある人間関係」から「利害関係のない人間関係」へ。

 そう考えると、大学もビジネスもそう変わらないように思う。ビジネスでは大学よりハードルは高くなるのかもしれない。だとしても「高ければ高い壁の方が登った時気持ちいい」ことを信じて、また新しいチャレンジをしていけばいいだけだ。

 まさか僕がビジネスをするとは思ってなかったけれど、ものすごく楽しみでわくわくしている毎日です。人生、何が起こるかは分からないものだね。