2008年4月14日
この4月からベストセラーのビジネス書や新書を多く読むようにした。いわゆる正統派の文学や哲学系の本ばかり読んできた僕には無縁のジャンルだったのだが、読んでみるとずいぶんと面白い。特にビジネス書は、自分がビジネスをはじめたせいか文学作品のように没入することができる。
不思議なのは、それらの本の多くが「既存のレールから降りた生き方」を推奨していることだ。就職ランキングに載るような大手企業に勤めることを必ずしも是とせず、むしろ真っ向から否定しているようにすら思える。僕が手に取る本に一定の傾向があるのを考慮しても「脱線」がこれほど喧伝されるとは、それほど従来のレールが生きにくくなっているということなのだろうか。
僕は脱線し続けて生きてきた。その結果、未踏の大地に踏み込んで、日々自分で自分の道を作るようなことをしている。だから新しい価値観を提示する彼らの言葉は僕を勇気付けてくれる。
そうした新しい価値観を「平成的価値観」とすれば、それと対比される「昭和的価値観」を持った人々が現状は大半を占める。昭和的価値観で生きている人、すなわちレールの上を全力で走っている人には、この平成的価値観の言葉は「今のまま頑張っても報われないよ」と言われるような、身を切られるような痛みがあるのではないだろうか。
僕がやろうとしているのは「レールから降りた生き方を後押しする」ことだ。パレートの法則風に言えば、レールから降りるべき20%の存在を認 めてパフォーマンスを発揮させるということ。先に述べた「平成的価値観」「昭和的価値観」という言葉を作った「3年で辞める若者」シリーズの城繁幸氏の言葉を借りれば、平成的価値観を担っていくのはこの20%の人々だと僕は考えている。
「昭和的価値観」から「平成的価値観」へと移行するために、僕は自ら定めた教育再建というテーマに従って「脱線の仕組み」を少しずつ作っている。「レールから降りても大丈夫だよ」と伝えられるよう、僕自身がレールから外れた場所にある荒野を切り拓き続けているつもりだ。
教育再建へ向けた道筋として、僕なりに二本の柱がある。ひとつが(1)「ウェブ時代のエリート」が育つ環境づくり、もうひとつが(2)「遠回りした若者」が「ウェブ時代のエリート」へと変わるための手助け、だ。
このうち(2)の「遠回りした若者」が置かれる状況を大別すると、(2)-A「チャレンジングな落ちこぼれ」と(2)-B「情熱を失いかけている落ちこぼれ」の2パターンが見えてくる。Aの「チャレンジングな落ちこぼれ」とは、自分を変化させる意思を持ち、自ら能動的に動ける者のこと。Bの「情熱を失いかけている落ちこぼれ」とは、変化する意思や能動性を失いかけてしまっている者たちだ。
現在、僕はこの(1)=(「ウェブ時代のエリート」が育つ環境づくり)を早大生を中心に進めていく準備をしている。(2)=(「遠回りした若者」が「ウェブ時代のエ リート」へと変わるための手助け)に関しては既に、Aは教育ベンチャー事業としての道塾で、Bは教育組織改革(コンサルティング業務)における最初の仕事 として不登校児を対象に動きはじめている。1にせよ2にせよ、目指すべきは「ウェブ時代のエリート」だと思う。
「ウェブ時代のエリート」というのは、以前に書いた「まだ見ぬ早大生へ」を読んで発奮するような若者のことだ。眠りを誘う暖炉の火ではなくて、他者に熱を伝えられるような「太陽の光」になり得る若者のことだ。
このことは僕に、同じ激動の時代として「明治」を思い起こさせる。「平成的価値観」の根底にあるのは、福澤諭吉が唱えた「独立自尊」の精神だと思うからだ。福澤諭吉の「独立の心なきもの、国を思うこと深切ならず」とは今で言うビジョナリーの言葉だろうが、この平成の時代にも色褪せることない輝きを放っている。独立自尊の精神で、自らが楽しみ、他者を楽しませ、それが社会をよくしていく。これほど楽しく、生きがいを持てることは少ない。
平成の時代に、必要なのは明治の人々が持っていた志。だから教育「再建」という言葉を使ってみた。
現在のメディアの体たらくによって、経済的にも言論的にもいわゆる「パラダイス鎖国」状態はしばらく続いていくだろう。「黒船」の脅威がまったく感じられない現在の日本において、変化は外からではなく内から起こさなきゃならない。それは、とてつもなく難しいことだと思うけれど、誰かがやらなきゃはじまらないんだ。じゃないと日本は本当に立ち直れなくなる。
一丸となってシュプレヒコールをあげるのでなくていい。ウェブという便利なものがある現状、ゆるやかに繋がっていけばいいと思う。多様性を認め合い、誰かがゆるやかに束ねていければいい。それは誰がやるのか? 他でもない、僕ら若い世代のはずだ。
若者が声をあげてかなきゃならないのに、相変わらずウェブ上で実名を出すことにすら躊躇している人が多い。それはもったいないよ。
オープンなマインドがなければ他者とつながれない。イノベーションを生み出すためにはリスクを取らなきゃならない。科学技術だけじゃない、イノベーションは政治にも学問にも、思考の様式にだって起こりうる。大勢の人々による連携を通じてイノベーションを起こし続けることで、はじめて社会を揺り動かすうねりが生まれてくるんだと思う。そして、その「うねり」を産みだすのはとんでもなく楽しいはずだ。僕らが大正や昭和といった時代ではなく、明治という時代を好んで語るように。
昭和的価値観の怪物はそのうねりを潰そうとするだろうが、それに抗わなくちゃならないと僕は信じている。それが若者の役目であり、生きがいであるはずだからだ。
早稲田という地はそれを叫ぶのにどこよりも適した場所であるはずだ。こんな時代に、こんな場所にいて、何もしないなんて、もったいない。僕らは時代の主役になることができる場所にいる。その想いが「まだ見ぬ早大生へ」を僕に書かせた。奇しくも今年の新入生はついに「平成生まれ」世代となった。ここからが「うねり」の本番だろう。
このブログは大きなうねりの元となる「さざ波」を起こす場所でありたい。
【フォト】 朝ごはん、毎日こんな感じです。ヨーグルト、バナナ、(ミニ)トマト、それに紅茶。幸せだぁ。
時代の主役は誰か?
この4月からベストセラーのビジネス書や新書を多く読むようにした。いわゆる正統派の文学や哲学系の本ばかり読んできた僕には無縁のジャンルだったのだが、読んでみるとずいぶんと面白い。特にビジネス書は、自分がビジネスをはじめたせいか文学作品のように没入することができる。
不思議なのは、それらの本の多くが「既存のレールから降りた生き方」を推奨していることだ。就職ランキングに載るような大手企業に勤めることを必ずしも是とせず、むしろ真っ向から否定しているようにすら思える。僕が手に取る本に一定の傾向があるのを考慮しても「脱線」がこれほど喧伝されるとは、それほど従来のレールが生きにくくなっているということなのだろうか。
僕は脱線し続けて生きてきた。その結果、未踏の大地に踏み込んで、日々自分で自分の道を作るようなことをしている。だから新しい価値観を提示する彼らの言葉は僕を勇気付けてくれる。
そうした新しい価値観を「平成的価値観」とすれば、それと対比される「昭和的価値観」を持った人々が現状は大半を占める。昭和的価値観で生きている人、すなわちレールの上を全力で走っている人には、この平成的価値観の言葉は「今のまま頑張っても報われないよ」と言われるような、身を切られるような痛みがあるのではないだろうか。
僕がやろうとしているのは「レールから降りた生き方を後押しする」ことだ。パレートの法則風に言えば、レールから降りるべき20%の存在を認 めてパフォーマンスを発揮させるということ。先に述べた「平成的価値観」「昭和的価値観」という言葉を作った「3年で辞める若者」シリーズの城繁幸氏の言葉を借りれば、平成的価値観を担っていくのはこの20%の人々だと僕は考えている。
「昭和的価値観」から「平成的価値観」へと移行するために、僕は自ら定めた教育再建というテーマに従って「脱線の仕組み」を少しずつ作っている。「レールから降りても大丈夫だよ」と伝えられるよう、僕自身がレールから外れた場所にある荒野を切り拓き続けているつもりだ。
教育再建へ向けた道筋として、僕なりに二本の柱がある。ひとつが(1)「ウェブ時代のエリート」が育つ環境づくり、もうひとつが(2)「遠回りした若者」が「ウェブ時代のエリート」へと変わるための手助け、だ。
このうち(2)の「遠回りした若者」が置かれる状況を大別すると、(2)-A「チャレンジングな落ちこぼれ」と(2)-B「情熱を失いかけている落ちこぼれ」の2パターンが見えてくる。Aの「チャレンジングな落ちこぼれ」とは、自分を変化させる意思を持ち、自ら能動的に動ける者のこと。Bの「情熱を失いかけている落ちこぼれ」とは、変化する意思や能動性を失いかけてしまっている者たちだ。
現在、僕はこの(1)=(「ウェブ時代のエリート」が育つ環境づくり)を早大生を中心に進めていく準備をしている。(2)=(「遠回りした若者」が「ウェブ時代のエ リート」へと変わるための手助け)に関しては既に、Aは教育ベンチャー事業としての道塾で、Bは教育組織改革(コンサルティング業務)における最初の仕事 として不登校児を対象に動きはじめている。1にせよ2にせよ、目指すべきは「ウェブ時代のエリート」だと思う。
「ウェブ時代のエリート」というのは、以前に書いた「まだ見ぬ早大生へ」を読んで発奮するような若者のことだ。眠りを誘う暖炉の火ではなくて、他者に熱を伝えられるような「太陽の光」になり得る若者のことだ。
このことは僕に、同じ激動の時代として「明治」を思い起こさせる。「平成的価値観」の根底にあるのは、福澤諭吉が唱えた「独立自尊」の精神だと思うからだ。福澤諭吉の「独立の心なきもの、国を思うこと深切ならず」とは今で言うビジョナリーの言葉だろうが、この平成の時代にも色褪せることない輝きを放っている。独立自尊の精神で、自らが楽しみ、他者を楽しませ、それが社会をよくしていく。これほど楽しく、生きがいを持てることは少ない。
平成の時代に、必要なのは明治の人々が持っていた志。だから教育「再建」という言葉を使ってみた。
現在のメディアの体たらくによって、経済的にも言論的にもいわゆる「パラダイス鎖国」状態はしばらく続いていくだろう。「黒船」の脅威がまったく感じられない現在の日本において、変化は外からではなく内から起こさなきゃならない。それは、とてつもなく難しいことだと思うけれど、誰かがやらなきゃはじまらないんだ。じゃないと日本は本当に立ち直れなくなる。
一丸となってシュプレヒコールをあげるのでなくていい。ウェブという便利なものがある現状、ゆるやかに繋がっていけばいいと思う。多様性を認め合い、誰かがゆるやかに束ねていければいい。それは誰がやるのか? 他でもない、僕ら若い世代のはずだ。
若者が声をあげてかなきゃならないのに、相変わらずウェブ上で実名を出すことにすら躊躇している人が多い。それはもったいないよ。
オープンなマインドがなければ他者とつながれない。イノベーションを生み出すためにはリスクを取らなきゃならない。科学技術だけじゃない、イノベーションは政治にも学問にも、思考の様式にだって起こりうる。大勢の人々による連携を通じてイノベーションを起こし続けることで、はじめて社会を揺り動かすうねりが生まれてくるんだと思う。そして、その「うねり」を産みだすのはとんでもなく楽しいはずだ。僕らが大正や昭和といった時代ではなく、明治という時代を好んで語るように。
昭和的価値観の怪物はそのうねりを潰そうとするだろうが、それに抗わなくちゃならないと僕は信じている。それが若者の役目であり、生きがいであるはずだからだ。
早稲田という地はそれを叫ぶのにどこよりも適した場所であるはずだ。こんな時代に、こんな場所にいて、何もしないなんて、もったいない。僕らは時代の主役になることができる場所にいる。その想いが「まだ見ぬ早大生へ」を僕に書かせた。奇しくも今年の新入生はついに「平成生まれ」世代となった。ここからが「うねり」の本番だろう。
このブログは大きなうねりの元となる「さざ波」を起こす場所でありたい。
【フォト】 朝ごはん、毎日こんな感じです。ヨーグルト、バナナ、(ミニ)トマト、それに紅茶。幸せだぁ。
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2 Comment:
僕も全く同感です。
僕は色々な原因で、既存ではない人と全く違う生き方をするしか道がありません。
ついこの間まで、どちらかというと社会からはある程度切り離された遁世的な生き方目指してました(病院の中や研究室にこもりっきりのような)
でも、最近は社会にうねりを起こしたいと思うようになってきました。色々なゆがみが限界にきている、そう強く感じるからです。
僕もうねりを起こせる一人になるために、まずは受験ですね。
よう!久しぶり
商売は上手くいってるかい?
メディアに露出する青年実業家の如く爽やかな考え方だなw
社会に変化か、そうだな、爆弾でも集めてこようか?・・・俺は未だにこんなことばかり考えてるぜwww
まぁ世の中を変える方法なんぞいくらでもあるだろ、そしてその殆どが実現可能だ。
古典的な作法の通用しない若者にはその中でも捻くれた方法を教えればいいんじゃないか?
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