2008年10月7日
「趣味の読書」から「学ぶための読書」へ変えたと、しばらく前のエントリー「100冊、10000人」で書いた。
なんとなく手に取り、なんとなく読んで、なんとなく面白がって、なんとなく忘れていく。それが「趣味の読書」。戦略的に購入し、効率的に読み、意識的に影響を受けて、機械的に定着させる。それが「学ぶための読書」。「趣味の読書」に留まっている限り、読書から得られる知識量の点で、「学ぶための読書」の意識で生きている奴との差は開いていく。
とはいえ。
ショーペンハウエルが『読書について』で語るように、結局のところ「読書とは他人にものを考えてもらう行為」であって、本を読むこと自体にさしたる意味はない。確かに「多読は愚者を作る」。ただ梅棹忠夫が『知的生産の技術』の中で言うように、読書には「発見のための触媒作用」としての働きがある。
読書という触媒作用を通じて、発見、すなわちオリジナルな思考を生み出す。その「触媒作用」を加速させるのが「学ぶための読書」だ。オリジナルな思考の材料となるのは「自分固有の経験」と「そこに書かれた知識」。そうした経験と(知識とを結びつけたところに、新たな行動指針が生まれてくる。
思考のための食べ物(=food for thought)という考え方がアメリカにはある(らしい)。これはそのまま読書に当てはまる。大切なのは暴飲暴食でぶくぶくと太ることじゃない。できるだけ良いものを多く食べ、消化し吸収された栄養をフルに使って、いかなる結果を生み出すか。その材料・触媒という点において、読書の価値があると僕は思う。
「food for thought」は読書に限られるものじゃないが、ごく一部の天才を除けば、その多くは読書を経てこそ得られるものだ。だからこそ、もっと学ぶために本を読まなければ、と思う。「多読は愚者を作る」と喝破したショーペンハウエルは、歴史を振り返っても稀な読書家だった。
(もっとも広い意味での)他者と差別化できる知識だけが自分の価値を決めるこの時代において、学びなく生きることの危険性を最近つくづく感じる。もっと学ぼう。もっと本を読もう。
と、中退2回&大学6年の僕が言ってみました。笑
なんて笑って平和に終わろうとしたのだけれど、やはりそんな悠長なこと言ってられる状況じゃないと思うので、今日はもう一歩踏み込んで書こう。
周囲を見渡していると「どこに学びがあるのか」という意識と、そこにたどり着くための「戦略」が決定的に欠けていると思う。日本の教育のどこに「学び」があるのか、明確に答えられる人はどれだけいるのだろう。特に大学教育なんて、腐りきっている(断言してもいい)。そんな状況にどっぷり浸かっていたら、自分まで腐ってしまうことに気がつかないのだろうか。
日本のトップエリートが次第に腐っていく現在を見て、僕らの国の行く末がとても不安なものに感じられる。腐った沼みたいなこのシステムを変えるため、どうしたら非力な僕の力が及ぶかなとすこし前から考えるようになった。まだ具体的なプランが見えているわけではないけれど、来年にはそのための行動を起こすべく思考を重ねている。
もし学ぶ場所が周囲にないなら、それを見つけるために必死になった方がいい。どこにもないなら、ウェブと読書とをベースに、どこで生きていけばいいかの戦略を練ればいい。行き当たりばったりの「趣味的」な生き方には訣別した方がいい。今ある流れに、流されないこと。じゃないと、墜ちていく日本と同じように、自分自身も墜ちていってしまうよ。
すべての始まりは戦略を持つこと。戦略なき学びは、趣味的な学びに過ぎない。戦略なく生きるのは、趣味的に生きるということ。趣味的に生きるには、人生はあまりに短い。もっと本気で、戦略的に生きよう。
そんなことを、中退を2回した後で、大学6年になる今まで考え続けてきたつもりだ。そして、これからも考え続けていく。
【フォト】(左から)こーすけ、キャシャ君、コテツ君の3人組と、わっしょいにて。
戦略的学習、戦略的人生。
「趣味の読書」から「学ぶための読書」へ変えたと、しばらく前のエントリー「100冊、10000人」で書いた。
なんとなく手に取り、なんとなく読んで、なんとなく面白がって、なんとなく忘れていく。それが「趣味の読書」。戦略的に購入し、効率的に読み、意識的に影響を受けて、機械的に定着させる。それが「学ぶための読書」。「趣味の読書」に留まっている限り、読書から得られる知識量の点で、「学ぶための読書」の意識で生きている奴との差は開いていく。
とはいえ。
ショーペンハウエルが『読書について』で語るように、結局のところ「読書とは他人にものを考えてもらう行為」であって、本を読むこと自体にさしたる意味はない。確かに「多読は愚者を作る」。ただ梅棹忠夫が『知的生産の技術』の中で言うように、読書には「発見のための触媒作用」としての働きがある。
読書という触媒作用を通じて、発見、すなわちオリジナルな思考を生み出す。その「触媒作用」を加速させるのが「学ぶための読書」だ。オリジナルな思考の材料となるのは「自分固有の経験」と「そこに書かれた知識」。そうした経験と(知識とを結びつけたところに、新たな行動指針が生まれてくる。
思考のための食べ物(=food for thought)という考え方がアメリカにはある(らしい)。これはそのまま読書に当てはまる。大切なのは暴飲暴食でぶくぶくと太ることじゃない。できるだけ良いものを多く食べ、消化し吸収された栄養をフルに使って、いかなる結果を生み出すか。その材料・触媒という点において、読書の価値があると僕は思う。
「food for thought」は読書に限られるものじゃないが、ごく一部の天才を除けば、その多くは読書を経てこそ得られるものだ。だからこそ、もっと学ぶために本を読まなければ、と思う。「多読は愚者を作る」と喝破したショーペンハウエルは、歴史を振り返っても稀な読書家だった。
(もっとも広い意味での)他者と差別化できる知識だけが自分の価値を決めるこの時代において、学びなく生きることの危険性を最近つくづく感じる。もっと学ぼう。もっと本を読もう。
と、中退2回&大学6年の僕が言ってみました。笑
なんて笑って平和に終わろうとしたのだけれど、やはりそんな悠長なこと言ってられる状況じゃないと思うので、今日はもう一歩踏み込んで書こう。
周囲を見渡していると「どこに学びがあるのか」という意識と、そこにたどり着くための「戦略」が決定的に欠けていると思う。日本の教育のどこに「学び」があるのか、明確に答えられる人はどれだけいるのだろう。特に大学教育なんて、腐りきっている(断言してもいい)。そんな状況にどっぷり浸かっていたら、自分まで腐ってしまうことに気がつかないのだろうか。
日本のトップエリートが次第に腐っていく現在を見て、僕らの国の行く末がとても不安なものに感じられる。腐った沼みたいなこのシステムを変えるため、どうしたら非力な僕の力が及ぶかなとすこし前から考えるようになった。まだ具体的なプランが見えているわけではないけれど、来年にはそのための行動を起こすべく思考を重ねている。
もし学ぶ場所が周囲にないなら、それを見つけるために必死になった方がいい。どこにもないなら、ウェブと読書とをベースに、どこで生きていけばいいかの戦略を練ればいい。行き当たりばったりの「趣味的」な生き方には訣別した方がいい。今ある流れに、流されないこと。じゃないと、墜ちていく日本と同じように、自分自身も墜ちていってしまうよ。
すべての始まりは戦略を持つこと。戦略なき学びは、趣味的な学びに過ぎない。戦略なく生きるのは、趣味的に生きるということ。趣味的に生きるには、人生はあまりに短い。もっと本気で、戦略的に生きよう。
そんなことを、中退を2回した後で、大学6年になる今まで考え続けてきたつもりだ。そして、これからも考え続けていく。
【フォト】(左から)こーすけ、キャシャ君、コテツ君の3人組と、わっしょいにて。
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2 Comment:
「多読は愚者を作る」という言葉は稀代の読書家ショーペンハウエルが言うからこその言葉であって、大学の授業に出ず、単位もあまり取っていない馬場さんに「大学教育は腐りきっている」と言われても説得力は如何程ばかりかと思います。僕も大学教育のすべてを肯定するつもりはありませんが、せめて馬場さんの言う「学び」の定義は何か、「大学教育は腐りきっている」とは具体的にどのような事態を指しているのか、逆に「正常な大学教育」として何を考えているのかを明らかにしなければ、留年生の愚痴以上の域には出ないように思います。せっかくいい考えをお持ちのようですからそれらを明らかにしなければもったいないです。
「もし学ぶ場所が周囲にないなら、それを見つけるために必死になった方がいい」、「すべての始まりは戦略を持つこと…」の部分はすごく共感できます。
説得力つけちゃお!
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