僕がここ数年読んだ本の中から言葉を選ぶなら、梅田望夫が「ロールモデル」として語り、斉藤孝が「あこがれ」と言い、宮台真二が「感染」と呼んでいるそれは、彼ら自身の動機付けられ方を言語化したものだと思っている。
年下の世代の若者と接していると、彼らの「生命力」が低くなっているのではないかと不安になることがある。人生に対する欲望の大きさの縮小と言ってもいいが、そうした背景には「動機づけられること」が少なくなったことも一因にあるのかもしれない。そんなことを考えながら藤原和博のシンポジウムの記録を読んでいたら、パネリストの一人が面白いことを言っていて、その発言のリアルさになるほどと合点がいった。
【石坂】 今回の調査データで見ると、私がうちの子に行かせていた塾や、これも通わせていた気がするスイミング、英会話だったり、家庭教師であったり、一応お勉強の塾だったりですね、全然身についていないんですよ、習字やったけど、すごい汚い字を書いているんですね。
なぜ塾へ行かせたか。きりがないのはわかっています。別にお金に余裕があってではない。切実に1つだけです。学校の先生以外に先生がいるというのを見せたかったんです。学校だけではない、勉強の場はいっぱいあると。先生だけではない、先生と呼べる大人はいっぱいいると、魅力的な大人がたくさんいることを、子どもが小さいうちに見せたかったんですね。
僕も幼少から色々と習い事をしてきた(させられてきた)が、その多くは数ヶ月と持たなかった。僕が他者に興味を抱かなかったというのもあるのだろうが、しかし長い間「いいな」と思える大人に出会えなかったことも関係しているだろう。そういえば、「しょーもないな」と感じる大人にはたくさん出会ってきたが、それはやがて「しかたないな」という諦めに変わっていった。
そんな僕も18にしてはじめて「いいな」と思える大人に出会うことができた。「本」を通じての出会いではあったが、大きな転機になった。その瞬間から進むべき道が分かり、人生のスピードは目に見えて上がっていったのだ。そう振り返ってみると、「いいな」と思える大人に若くして出会えるか否かは、その人の一生を大きく左右するのかもしれないと思う。
そんなことを話している時にふと気がついた。道塾は高校生が「いいな」と思える大学生と出会える場なんだ、と。
僕が高校で勉強を一切しなくなった理由は、大学に入ったその先がまったく想像できなかったからというのも大きかった。高校入学当初はなんとなく医者になるつもりでいたのだが、医学部やその先の医者としての生活を楽しく想像することができなかった。
受験指導を通して「大学に入るのっていいな」と思わせることができれば、彼らが大学受験をする意味はぐっと大きく感じられると思う。とりわけ直接に大学生と触れる機会の少ない人、たとえば地方住まいの高校生なんかには、素晴らしい出会いになることだろう。今までは無意識のうちにやってきたが、塾生が増えるにつれてスタッフも増えて行くであろうこれからは、より戦略的にやっていきたい。
そのためには、まずスタッフ一人ひとりが「いいな」と思われる存在でなくちゃならない。わずか30分の電話越しの話とはいえ、毎週続けていればその人間がどういう風に生きているのかはすぐに伝わるのだから。そのためにはまず僕から。塾生に「いいな」と思ってもらえる大人たちであるよう(その道は果てしなく、険しいが)一歩ずつ進んでいきたい。
PS.ちなみにこの「いいな」というのは、僕が大学で出会い「いいな」と思った先輩が卒業文集で使っていた言葉。
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