梅田望夫と茂木健一郎の対談本『フューチャリスト宣言』で、「本」がアンカー(錨)としての役割を果たすという議論があった。Twitterというフロー型メディアの発展に伴い、ブログが本に替わるリファレンス・ポイントとしての役割を強めていくのだと思う。
それはともかく。
僕がブログを通じて「志向性の共同体」に参加し、友人(というと失礼かもしれないけれど)を増やすきっかけを作ってくれた方に、ブログ「横浜逍遙亭」の亭主である中山さんという方がいる。2008年の「シュンポシオン横浜」を主催した人と言えば昔から僕のブログを読んでいる人には分かるかもしれない(昔のエントリー:「シュンポシオン横浜 第一部 青年の主張 「絶望の淵でこそ『大人の流儀』を」)。
「横浜逍遙亭」では以前から、ちょっと離れた視点から見守る父親の胸中といったような内容で、息子さんのことが描かれていた。最近は高3になる息子さんの受験生活のことが触れられていて、ちょうど僕が指導する塾生たちの年齢と重なることもあり、塾生の保護者の声のような気持ちで僕は読んでいたのだった。
前回のエントリーで書いたとおり、私は受験生である自分の息子に向かって「がんばれ~」などとポストモダンな掛け声をかけるのですが、いったい何のために「がんばれ」というのか。がんばることの正当性、妥当性はどこにあるのか。がんばることで給料が上がったり、物質生活が豊かになるとは限らない。いえ、彼や彼女に明らかに人とは異なる能力や才能がない限りは、がんばたって、そんなに結果は変わらないというのが多くの人々にとって現実です。そんな社会を私たちの子供らは生きています。
じゃ、がんばらなくっていいのか。そう問いかけてみると、思考はもう一回転し、物質主義とは違う、がんばることの意味が見えてくるのではないか。実に難しい時代に我々は生きています。もしかしたら、面白い時代なのかもしれません。
横浜逍遙亭「がんばること」
このエントリーを読んで、僕は塾生の保護者たちすべてに答えるような気持ちで、以下のようなコメントを書いた。
(続きまして)ご無沙汰しています。ようやくネットに復帰しました。受験期でしばらく落ち着かないのですが、また以前のようにお会いしてお話しできればいいなぁと思っています。
僕は昔のことは分かりませんが、GDPの伸びというのは具体的に言えば、冷蔵庫だったり、洗濯機だったり、テレビだったり、エアコンだったりに現れるのでしょうか。そうした意味では、分かりやすくていい時代だなと羨ましくなります(それはそれで苦労はあったのだと思いますが・・・)。
今のようにがんばることの正当性がない時代には、人のモチベーションは上がりにくいのだと思います。道塾がやっていることは、若者に対してがんばることの意味を自らの生き方でもって示し、正当性の根拠を与えることだと思っています。がんばる対象は受験に限らなくてもいいと思うのですが、この時代において受験は多くの若者がぶつかる壁であり、それをうまく乗り越えることができれば(必ずしも第一志望に合格という意味ではなく)、その先の人生においても活かせる貴重な学びの場になると考えています。もうすこし拡大して言えば、孤独でありながら同時に親や友人の「支え」を感じてがんばる受験は、人生の縮図であるとも思います。
僕が若い子たちに馬鹿のひとつ覚えのように言っているのは、自分が大切だと思う時にがんばれれば、その後もがんばれるということです。そして、僕は身を懸けた「がんばる」という行為の中に、単純だけれども生きる本質があると思います。がんばることがなければ、喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさも、その多くは失われてしまうのではないでしょうか。人生は結果ではなく、湧き上がってくる感情を味わう「過程」がすべてだと僕は考えています。だから人生を深く味わうためのキーワードは、その対象は何であれ、がんばることではないかと思っています。
そうした意味では、ごく個人的な考えですが、せっかくこの世に生を受けたのであれば、その限られた時間の中でできる限りたくさんのことを味わうためにがんばる意味はある、と僕は考えています。
現状では、多くの若者は「がんばり方」を知らないまま成長してしまいます。それは「がんばる方法」という意味でも、中山さんのおっしゃる「がんばる正当性」という意味でもそうだと思います。
もう一年以上前になりますが(懐かしいですね!)、あの頃「SMAP構想(Speak,Make,Attack,Pink!)」をお話ししたように、今もってそうした20代が増えることで、がんばることが正当化され、もう少しわくわくできる時代になるのではないのかなという想いは変わりません。
今は他者との競争のためにがんばる時代ではなく、己の人生を味わうためにがんばる時代なのだと思います。辻さん(ご無沙汰しています!)がおっしゃる通り「自己満足」だと思います。それが結果として他者の人生に役立つことになればと願うのが、凡人である僕にできる最大限のことだと考えています。
ふと思い出したので引用しますが、敬愛するスピノザは自己満足についてこのように語っていました。「まことに自己満足は我々の望みうる最高のものである」(スピノザ『エチカ(下)』p64 岩波文庫)。
豊かになって価値が多様化し、ありふれたモノのためには誰もがんばれなくなった時代だからこそ、たとえそれが自己満足であれ、がんばる正当性を様々な形で創造し、循環させていく必要性がある。そう信じて日々精進していきたいと思います。
さて、僕の粗雑な議論の結論は脇に置いておくとして。
僕はその後のコメントのやりとりが嬉しく感じる。なかなかお会いして話すことはできないけれども、こうしてゆるやかな繋がりを保っていられることに感謝したい。ということで、Twitterをはじめた皆さん、その勢いでBlogもぜひどうぞ。
PS.ちなみに僕の後に続けてコメントを返してるgitacatさんは京都校での大恩人。道塾関係者は要チェックです。