2008年12月14日

シュンポシオン横浜 第一部 青年の主張 「絶望の淵でこそ『大人の流儀』を」 

 シュンポシオン横浜の直前、文芸誌の『新潮』 2009年1月号に梅田望夫と水村美苗の対談が掲載された。内容はおいといて、衝撃的だったのは梅田望夫がこの国の未来(というのが大きすぎれば、日本のウェブの変化)に「絶望的」になっていると語っていたこと。僕が『新潮』を読んだのはシュンポシオン横浜の後なのだが、その前からウェブで交わされる議論を追っていて溜め息をつきそうになった。

 あれほど意識的にオプティミズムを貫き、若者たちを励ましてきた「強い男」ですら、絶望せざるをえない日本の現状なのか。そう思うと、僕の未来までも暗くなった気がした。

 僕は大学に入ってから以降、自分より一回り若い子どもたちと多く接してきた。特にこの1年は集中的に話している。僕が接している子たちは梅田望夫のそれと違って、多くは「エリート」とはかけ離れた、落ちこぼれだったり、不登校だったりする子どもだ。僕は彼らと接していて、若者がどれだけ未来に希望を持てなくなり、同時に生きる術を失っているかということを感じてきた。15歳の若者が「未来に希望はなにひとつない」と言うのを聞いたら誰だって驚くだろう。でも、それがこの国の現状なんだ。

 そんな彼らに対して僕は、「未来はあるよ。自分で切り拓けさえすれば」と言い続けてきた。にもかかわらず、僕がそれを言うためのエネルギーをくれた一人である梅田望夫が「絶望的」になっていると語ってしまった。これで僕がショックを受けないはずがない。が、それと同時に僕の内側の深いところから怒りがこみ上げてきた。

 たしかに僕だって絶望的になる時はあるよ。でもさ、それでもだよ、これだけ若者を勇気付けてきた人が「絶望している」と言っちゃいけないんじゃないのか。これじゃどこぞのヘタレな総理大臣と変わりない身の翻し方だ。優秀な奴は皆日本を飛び出してアメリカで学んでるようだけど、こんなことを言ったら「日本に帰らなくてもいいや」という若者を増やすだけだ。

 梅田望夫は「福沢諭吉がこの時代に生まれたらどう生きるか」という興味深い問いかけをしていた。僕は、これと同じくらい興味深いもうひとつの問いかけをしてみたい。梅田望夫が今年僕と同じ25歳で渡米していたとしたら、数年後に訪れる「英語で生きるか」「日本語で生きるか」という選択の際、はたして「日本語に戻る」という決意をしただろうか。

 水村早苗は「なんで私は日本語を選んでしまったのだろう」という思いと共に生き続けてきた。そして、梅田望夫が何より共感したのはその点だと僕は思っている。絶望的になりながらも、日本語という世界の中で生きていかなければならない二人。水村美苗には同情すべき部分もある。彼女は物心ついた時から外国で暮らしながら日本語の文学を愛するという世界で生きざるをえなかった。だが、梅田望夫に同情する部分は何一つとしてない。

 未来への夢を述べた本で世に出た男がわずか3年で絶望に転じるというのは、いくらスピードの増した現代とはいえあまりに早い。早すぎる。梅田望夫は、今自分が25歳だったら英語の世界に喜んで進むだろう、と内心感じているのかもしれない。彼は先の対談でも「夏目漱石が現れたようなことが、いま起こるかですよね」という風に語っている。彼の周囲の若者達が英語世界に踏み入れていくとも語っている。確かにそれに悲観的にならざるを得ないのも分かる。でも、日本語に戻って、そして日本「全体」を勇気付けようとした男がそこにたどりついてしまったら、あまりに悲しいよ。

 水村美苗は数十年間の問いかけの末に、絶望の淵でもなお「日本語を守らねばならない」という悲壮感の中で『日本語が滅びるとき』を書き上げた。梅田望夫が「絶望的」になったと言うのと比べたら、どれだけの魂がそこにこもっていることだろう。彼が日本の現状に怒るのはいいけれど、Twitterで(おそらくは戦略的であるにせよ)罵倒の言葉をつぶやいて、雑誌で「絶望的」だと言って、それで終わりかよと思ってしまう。好きなことやるのはいいけれど、将棋よりやることあるんじゃないのか?と。僕も将棋は好きだけれど、このままじゃその将棋すら滅び行く運命なんだよ。

 いま梅田望夫が一縷の望みを託しているトップ層だって、いまさら英語で生きようとする人は国外に流出してそれで終わりだ。それが悪だと言うつもりはないが、分かりきっていることだろう。国民全体を覆うような空気を作り出さなきゃ、この国は決して変わらない。そして日本人というのは、歴史的にそうした変化に長けていると僕は思う。

 梅田望夫(の本)と出会ってからのこの1年半、彼を追い続けた。すればするほど、いい男だと思ってきたし、これからの日本を引っ張る男の一人だと信じるようになった。今回の件ですこしぐらついたけれど、本質的には今も変わらない。彼ですら「絶望的」にならざるをえない材料しか手に入っていないのだから仕方ない。でも僕は日本に住んでいるから、彼よりもこの国の空気を感じているし、だからこそ明るい未来を描くことができる。だから、それを語ってみたい。

 絶望的にならざるをえない理由は主にふたつある。大人が未来を創る若者に席を譲らないのが一点。もうひとつは大人に挑戦すべき若者がいないことが一点。でも、その二つとも僕には変わりつつあるように見える。絶望するのはまだ早いように感じられる。その変化の突端が、「梅田望夫シンパ」とさえ揶揄されたシュンポシオン横浜という集いに象徴的に現れたと僕は思っている。

 世代を超えて50人近くのbloggerが集ったその場で語ったのは20代の若者たち。「青年の主張」というこの素晴らしい企画は、40前後の大人たちによって考え出された。本当は油の乗った30代、40代の方が面白いんだ。でも、それを分かってても彼らは若者を舞台に上げた。大学や企業ではなく、自主的な集まりで青年が主張できる場に僕ははじめて踏み入れた。冷え込みが厳しくなり、景気が加速度的に悪化し、梅田望夫までが絶望したと語った12月。気持ちが真っ黒になりそうだったちょうどその時、若者の主張や未来への夢を語らせてくれる舞台があったことに僕は救われた。

 大した話もできないのに、大人たちは僕らに「面白かったよ」と声をかけてくれた。そして集いの後のblogでは「青年が熱かった」と口々に褒め称えてくれた。これが梅田望夫の言う「大人の流儀」でなくてなんなんだろう? 僕は日本人が危機感を募らせるにつれ、「大人の流儀」が少しずつ、だが着実に広がっているのを感じる。

 こんな空気があれば、若者が挑戦しないはずがない。そして、実際そ動きを起こす若者達も育ちはじめている。シュンポシオン横浜の20代の語りが十分なものだとは思わないが、しかし戦する姿勢は素晴らしかったと思う。僕はそうした挑戦する若者の筆頭になっていくだろうし、なっていかなければならないと思ってる。そんな動きを起こしていきたいと思ってる。そうした想いを込めて僕は、「絶望の淵でこそ『大人の流儀』を」と題した「青年の主張」をした。

 「大人の流儀」と「青年の主張」。このふたつがあれば、日本を変えるための国民レベルでのうねりは起こせるよ。僕は主張し、挑戦し続ける。そして、すこしずつ変化のうねりを生むためのアクションも起こしていく。それに応える「大人の流儀」さえあれば、僕のアクションは現実のものとなるだろう。今も複数のアクションを同時並行で進めてる。然るべき時が来たら発表するが、僕の来年は「大人の流儀」と「青年の主張」との間で、今年以上に激動の一年になる、そんな予感がしている。

 一年の締めくくりの月に、「大人の流儀」に満たされた場で「青年の主張」をできてよかった。来年を走りぬくエネルギーをもらうことができた。ここで蓄えた力を、来年必ず、皆が驚くような形で爆発させたい。