2009年2月28日

龍と春樹と司馬遼太郎

 「日本文学でもっとも影響を受けた人は?」と問われれば、迷わず僕は答えられる。あまりにベタ過ぎて自分でも笑ってしまうけれど、W村上、すなわち村上龍と村上春樹の二人だ。龍は暇を持て余していた高校中退時代に一通り読み、春樹は大学2,3年の頃に読み切った。好きな作品は何度読み返したか分からないくらいだ。

 龍の作品は残念ながらブックオフで100円で売られてしまっているが、社会に挑戦する姿勢、マイノリティーへの視線、そして日本の現状への危機感を、彼以上に併せ持っている人間を僕は他に知らない。それらすべてを混ぜ合わせ、天才的な筆致でまとめあげた『半島を出よ』は間違いなく現代日本文学の金字塔だと思う。

 一般的な評価で言えば、春樹の方が数段上だろう。文学的に見れば、挑戦度も、質の高さも、たしかに春樹の方が上だ。世界文学になるのも頷ける。ただ、それでもなお、人生に対する挑戦の度合いで言えば、龍が一歩先を行っていると思っていた。だから、文学という枠を超えた男の生き方として、僕は村上龍に惹かれてきた。

 が、ちょっと前の文学賞での一件で春樹への見方が変わった。オウム被害者への取材記である『アンダーグラウンド』、しばらく後に出た挑戦的な小説『アフターダーク』、ほかにも細々と出てくる春樹の情報から、彼が長い時間をかけて脱皮しようとしているのは知っていた。ただ、ここまで踏み込んでくるとは思わなかった。

 僕が小説を書く理由は、ひとつしかありません。それは個々人の魂の尊厳を立ち表わせ、光りをあてることです。「物語」の目的とは、システムが僕たちの魂を蜘蛛の巣のように絡め取り、その品位を落とすことを防ぐために、警戒の光りをあて、警鐘を打ち鳴らすことです。

 僕は強く信じています。物語を書きつづること、人々に涙や慟哭や微笑みをもたらす物語を書くことによって、個々の魂のかけがえのなさをはっきりさせようとし続けること、それこそが小説家の仕事であると。

春樹のエルサレム賞受賞時のスピーチ
翻訳『しあわせのかたち』より


  今回のスピーチで語られた「システムへの対抗」。春樹がこれを語った晩に、偶然僕もそのことを書いていた(『挑戦状を叩きつける』)。ただ、その時僕の頭に浮かんでいたのは、春樹ではなく龍だった。

 龍は一貫して「システムへの憎悪」を主題のひとつとして小説を描き続けてきた。それだけでなく、批判や失敗を覚悟で、彼なりのやり方でその問題と対峙してきた。僕は、これこそが豊かな時代を率いるエリートが人生を賭して挑むべき問題だと思う。

 春樹が語ったように、ひとつひとつは柔らかい「卵」のはずなのに、それが集まり時間が経つと、いつしか化石のように冷たく、固くなってしまう。そうやって、所属の壁が、世代のズレが、国境というボーダーが、宗教の対立が、生まれてしまう。いじめや、差別や、憎しみ合い、そして戦争が、そこから起こるのだ。

 僕は、エリートたる人々は卵を孵化させる責任を引き受けるべきだと思う。一人で自由に大空を飛びまわれる鳥を育てなければならないと思う。そのために必要なのは、僕らひとりひとりが「熱」を持つこと。いたわり、他人の痛みを感じること、やさしさ。そうした「暖かさ」があれば、生まれてくる卵は化石にならず、鳥となって飛び立てるはずだ。

 そのことを誰よりも分かっていて、僕の心をあたため続けてくれる作家が、もう一人いる。あえて「日本文学」には数えなかったが、司馬遼太郎だ。

 歴史という大きなシステムに挑み続けた彼の言葉は、自分より年下の子どもたちと接するとき、いつも僕の心に火を灯してくれる。

 「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」。みな似たようなことばである。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。


 僕はまだ偉大な3人の作家のように大きなシステムと戦うことはできない。理想と現実とを見比べれば、僕の語ることなんて夢物語に過ぎないように思える。すくなくとも、周りからはそう映るに違いない。

 それでも。

 できるところから、ひとつずつ突き崩していこうと思う。

 僕自身が太陽のように熱を帯びれば、すこしずつであれ確実に伝わっていくはずだ。

 偉大な文学者たちの熱を受けつぎながら、いちだんと加速し、熱を帯びていく。

 その光によって暖められた卵たちが、やがて孵り雛となって大空を飛び回る。

 そんな日を思い浮かべながら、僕は今日も世界の片隅で挑み続ける。
2009年2月27日

さくら

 東京は、昼に雪がちらついた。

 神田川沿いに立つ冬枯れの桜をよく見れば、枝の先にはたしかな芽吹きが。


 サクラサク。

 最近の合格通知はディスプレイの数字か野暮な録音の音声だが、一昔前は、そうした風流な電報で報されることもあったらしい。


 早稲田の正門へ続く道には、新入生を待ち侘びるかのように早咲きの桜が花をつけていた。


 僕らはまだ花の芽。咲くのはずっと先だろう。

 長い冬が続くのかもしれない。

 それでも。

 やってくる季節に心躍らせている自分がいる。それも、自分だけでなく、仲間たちも。

 すてきな春に、なりそうだ。
 

2009年2月26日

【83チン】 塩原正一郎が、今朝の朝日新聞に載ってます。

 僕の周りには1983年度に生まれた奴が多い。道塾を一緒にやってるジョンやみっちゃんもそうだし、大学でずっと一緒にやってきた庄司、メガピを一緒に立ち上げたてっちゃん、他にもこのblogからリンクを張ってるだけでも、大原あんくん、キヨノ、、、

 それぞれ強烈な個性をもって輝いているのだが、彼らは皆一様にどこかで社会からはみ出してしまった部分を抱えながら生きている。そのような同じ世代の奴らのことを、僕らは敬意を込めて「はみ出したチ○カス野郎」、通称「83チン世代」と呼んでいる。去年から「83チン会」と称する集いを開いて飲んだりもした。

 その83チンの主要メンバーの一人、塩原正一郎(通称「正ちゃん」)の記事が今日の朝日新聞朝刊に掲載された。きっと日本中の人がこの記事を読んで心を動かされたことと思う。一人の仲間として、ほんとうに嬉しい。

 正ちゃんはジョンの中学からの友人で、同じ予備校に通っていた浪人中には一緒に劇団をやったりもした仲らしい。MEGA PEACE vol.1を立ち上げた時に「音楽に詳しいヤツ」ということでジョンが連れてきて、僕は彼とその時に知り合った。メガピでは彼が指揮者として、音楽性だけでなくその人柄でリードしてくれたからこそ、はじめての合唱練習が楽しいものとなったし、後にメガピに人が集まってくるようにもなった。

 メガピの音楽総監督のような役割を務めると同時に、みんなの「パパ」として慕われていた正ちゃん。ただ、今回新聞に載ったような活動を知る人は少ないんじゃないだろうか。僕は、道塾や東京家学のことで彼に相談をしたり、手伝ってもらったりする中で、彼が音楽好きなダンディズム溢れる素敵な男というのを超えた、素晴らしい教育者だということを知った。

 人の役に立つため。勉強の支えになるため。格好良い理由ならいくらでも言える。でも、どこか、違う。

 子どもたちにとって、手助けする大人が自分である必要は、多分ない。それでも、子どもたちにかかわりたいと思う気持ち。

 最近、ぴったりくる言葉をようやく見つけた。

 「君と、一緒に居させてほしいんだ」

 2008年2月26日 朝日新聞朝刊(38) 「やがて・・・・・・春。」より

 不登校の子を親身になって支える。一人で悩んでいる受験生の相談に乗ってやる。外国人の子どもたちの勉強を教えてやる・・・。どれもほとんどボランティアのようにしてやっているのに、それを誰かに誇ることも、語ることすらもしない。彼は、簡単に「教育再建」という言葉を口にするような僕なんかが手も届かない、本物の教育者だと思う。

 誰にも言わずに、ただひたすらに自分の目の前の子どもたちを見つめてきた正ちゃん。その人の目につかない地道な活動がこうして新聞に載ることは、きっと同じような活動をしている人たちへの励ましになるだろう。こうやって素敵な83チンがたくさん世に出て、太陽のように人々の心を暖めていくといいなと思う。
2009年2月25日

道塾、合同会社への道、日程決定。

 準備をする中で不測の事態も考えられるから、念のため「3月上旬」としていた会社化。だいたい目処がついて予定通り行きそうなので、3月最初の平日である3月2日(月)に登記を行うことで決定した。

 3月2日をもって、個人事業としてやってきた道塾は、「合同会社 道塾」という法人になる。合同会社というのは会社法が改正されて最近新しくできた会社形態で、スモールビジネスに向いているとされる。

 ごく大雑把に言えば、株式がその会社の所有者を決める株式会社に対して、そこで働く社員が会社の所有者になるのが合同会社。だから「人」や「信頼関係」が大事になると言われる。

 そう、ここで働く社員みんながこの会社の持ち主になる。既に僕一人の力でやっている訳ではないが(実際、会社設立の面倒な書類手続きは全てみっちゃんが担当している笑)、これで名実ともに仲間と歩んでいくことになる。

 会社になったからといって、取り立てて何かが変わるわけではない。それでも、何かが起こりそうで、やっぱり楽しみではある。個人事業主としてやるのも残り5日。しっかり駆け抜けて、良きスタートを切ろう。
2009年2月24日

平山ビル引っ越し中


 長かったシェア生活も終わりに近づこうとしている。今日は、芸人の聖二の引っ越しがあった。明日は韓国人のイノが家を出ていく。4人いる25歳組の残り、僕と竜二も適当に出ていって、ここに住み続けるのは前にも書いた通りたっくんとコテツくん。

 新メンバーは既に森ちゃんと揚げ男の二人が決まっていて、あと一人をどうしようかな、というところのようだ。場合によっちゃ女の子が住む可能性もあるみたいだけど、この家の構造で女の子ひとりがシェアするのはちょっと厳しくないか・・・笑。


 この家は、3階に二部屋、4階に二部屋という構造で、それぞれ奥の部屋に行くには手前の部屋を通過しなければならない。3階と4階は階段で結ばれていて、それをさらに昇ると布団や洗濯物を干せる広い屋上に出る。そこからは目白台の森が見渡せて、置いてあるガーデンチェアに腰掛ければ、春から秋にかけて最高に気持ちいいビールスポットになる。

 ご近所さんに迷惑がかかるのもあり、屋上で毎日バーベキューをやるという当初の目論見は叶わなかったが、その分だけ家の中ではよく宴会をやった。イベントの仲間と飲んでいるのに、いきなり住人が割り込んで来るのもしょっちゅうで、そんな中から思わぬ出会いが生まれたこともあった。ひどい家だったけど、そういう意味じゃシェアの中でもわりと境界線の薄い家だったと思う。


 メガピース(vol.1)を離れてから、当時ほど所属の壁や境界線といったことを考えることは減った。ただ僕の奥ふかくでは変わらずそのことに対する想いがある。表面的な所属や世代や国籍というものを超えた、根源的な存在と存在との出会い。そこで起こる歓喜。

 そこへ向けて新たな行動を起こすのはもうすこし先になりそうだが、メガピ以来、日々の生活の中で感じたり考えたりしたことは、心の底の方で確実に積み重なっていて、僕の志向性の本質的な部分を形づくっているように思う。

 メガピをはじめる数ヶ月前。色々あって鬱々としていた自分に別れを告げ、僕の激動の日々のはじまりとなったのが平山ビルに住みはじめたことだった。それがついに終わるのかと思うと、すこし寂しい気がする。でも、振り返ればわずか2年。あそこからよくここまで走ってきた。

 おそらく、僕はここで区切りをつける必要があるのだろう。この2年に劣らない、また新たなステージへと踏み入れるために。

2009年2月23日

ビラ配り

 平均すると毎日約1万人が受けにくる早稲田受験。「早稲田」の名を冠する各予備校が、大挙して解答速報をはじめとするビラを配りにやってくる。道塾も、「ここで塾生候補に認知させないで、他にいつやるんだ」ということでビラ配りを決定。とはいえ、解答速報は他の予備校がやっているし、つまらない。

 そこで、「受験後に配るビラなんて、ウザいに決まってるじゃん」ということを前提に、どうしたら受け取った受験生が面白いと思ってくれ、役に立ち、かつ道塾に興味を持ってもらえるかを考えた。その末に出たアイデアが「2~3月の過ごし方」を伝えるというもの。

 ジョンのリードで早稲田の一年生数十名に協力してもらいアンケートを取った。それから運スタで「裏スポ」を書いていた岡山君(もはや道塾の準スタッフ・・・)に依頼してイラストを描いてもらい、視覚的にも伝わりやすいよう工夫した。受験期間もジョンが周りに声をかけまくって、毎日いろんな人が手伝いにきてくれた。

 毎年、ビラを配りつつ道塾OB会をやるってのも手だね。そんなことを話しながら(理工を除く)10日間のビラ配りを終えて数えてみたら、いろんな人の協力のおかげで、結局3000枚くらい捌くことができた。急ごしらえでやった割には頑張ったと言っていいだろう。

 受験の終わった塾生に聞いてみたところ、ビラ自体もなかなか好評だった。こちらにしても、単に解答速報を配るよりもずっと楽しい。来年は内容をパワーアップして、さらに気合いをいれて配ってみようかな。

 なにはともあれ、手伝ってくれた人たちのおかげです。本当にありがとう!







2009年2月22日

早稲田大学受験、全日程終了


 入試の前後で多くの塾生が会いに来た。その中の一人、道塾一期生で過去に僕が受け持っていた塾生が、受験前日に「近くの蔵元で買ってきました」といって日本酒を持ってきてくれた。「メルシーに行きたい」というので、1年半前のオープンキャンパスの時と同じように、早大合格を祈りながら野菜ソバを食べた。


 中学不登校の後、定時制高校に通いながら大検を取得。が、メンタル面の不調から現役、1浪と試験すら受けられないまま受験を終える。2浪目となった今年、ついに関西のトップ私大に合格。二十歳の誕生日を目前に、早稲田は最後の社学だけを受け、それをもって受験生活が終わる。駅の改札で別れる時、噛みしめるように「この二年半は無駄じゃなかったと思います」と言っていた。


 そう、どんな結果であれ受験生活が無駄だということはない。あらゆる挑戦は、結果を引き受けて、それをどのように意味づけ、未来に活かしていくかにかかってる。ひとつの挑戦の終わりは、また新たな挑戦のはじまりに過ぎない。挑戦の結果、仮に栄光を掴んだとしても、それにすがって生きるようじゃ、そんな栄光は掴まない方がマシだ。

 生きる中で、上手くいくこともあれば、いかないこともある。受験の勝ち負けは明確だけれど、人生の勝ち負けは学歴や年収なんかじゃ計れない。たぶん、勝ちも負けもないのだと思う。苦しみの多い人生で、ほんのわずかでも楽しみが勝って幕を引ければ引き分け以上だし、それで満足できるのだと思う。そのために必要なのは、迷いながらも日々前進し続けること。

 多くの受験生にとって、それまでの人生でもっとも努力し、またその分だけ真剣に悩むことになる大学受験。そうした彼らの日々をいくらかでも支えられることに感謝すると同時に、僕を見つめる彼らのまっすぐな目を見て、やっぱり俺はもっと速く走り続けなきゃダメだな、と思う。

 受験、おつかれさま。

 今日の社会科学部の試験をもって早稲田の一般入試はすべて終了。まだ若干名が入試を続けるものの、受験生の人数はかなり減るため、これより本格的に第三期の準備へ向けて動き出す。会社化へも日を指折り数えるばかり。道塾もいよいよ本格始動していくよ。
2009年2月21日

本日の産経新聞朝刊に掲載されています

 道塾が受験シーズンまっただ中で、加えて来期へ向けた準備もあり、忙しさのピーク、という言い訳によってblogの更新が滞ってます(毎日更新を年初に誓ったんだけどなぁ・・・)。

 が、東京家学の取り組みが本日の産経新聞朝刊17面に掲載されたので、間4日をすっ飛ばしてご報告。ウェブにも記事が上がってます。 こちら→MSN産経ニュース

 記事の修正点が1点と、注釈が1点。修正点は、僕はまだ25歳だということ(そんなに老けたかな・・・?tt)。注釈は、「偶然知り合った男性」は、親戚の紹介で「偶然」知り合った人ということで、もう亡くなられたが、地元の教育者の方。僕のロールモデルの一人です。

 8月の立ち上げ以来、これで東京家学は東京新聞、読売新聞、産経新聞と掲載してもらった。これからはメディアに頼りすぎず自分たちの力で広げていきたい。

 対して道塾は、一昨日はじめてのプレスリリースを密かに打ち終えて、(朝日新聞は偶然の「縁」とすると)これからメディアの力を借りようかというところ。

 さて、忙しくなってきたよ。


 PS.脇くん、勢川さん、鼎談のウェブ化が遅くなってます。ごめんなさい。来週末には完成予定です。しばしお待ちを。
2009年2月16日

道塾 最後の塾報

 道塾には塾報というのがあって、毎週1回、勉強時間報告や連絡事項の通知に加えて、スタッフが持ち回りで書いた文章をメールで送っている。面白いのが、書くスタッフによって内容や方向性がかなり違うこと。たとえばジョンならつい笑ってしまうような話が多い。

 この塾報はわりと好評で、「全部保護して、モチベーション下がった時に読み返してます」なんてことを言ってくれる塾生もいる。受験生の心に届くように、毎回気合いを入れて書いている僕らにしてみれば、そうやって読んでもらえるのはすごく嬉しい。

 5月から書き続けてきた塾報だが、今日の僕の分を持って今期の通常号は終了した。4人が持ち回りで書いて計41号。3月から新年度体制に入る前、早稲田受験の真っ最中に最終号を僕が書いて、残す早稲田受験やその後の国立・3月入試へのエールとした。

 これから受験者数の多い学部が続く。道塾にも毎日のように塾生がやってきて、相談の合間を縫って話したり、メシを食べたりして、すこし慌ただしい。もはや僕らにできることは大してなく、ただ心の中で頑張れと言うだけだが、それがすこしでも彼らの力になればと思う。


 以下、塾報最終号より。

覚えておいてくれ。

万全の態勢で臨める奴なんていない。
完璧なんてない。誰もが中途半端だ。
すべての人間が心のどこかに不安を抱いている。
それは、一生変わらないんだ。

それでも。

それでも、その不安の中でも、最後まで戦いきること。

受験は長く苦しい戦いだが、
終わってしまえば、長い長い人生における出来事のひとつに過ぎなくなる。
だが、たとえわずかな期間であっても、
手を抜いたらその後もずっと同じことを繰り返す。

くどいくらい言ってるから、
また同じこと言ってるなと思うヤツもいるだろう。
でも、これがすべてだと思うから、最後に敢えて繰り返そう。

この一瞬の戦いに、その後の人生すべてがかかってる。
どんな状況であれ、最後まで諦めずに、戦い抜いてくること。
それは、他の誰との戦いでもなく、自分の弱さとの戦いなんだ。

己に、打ち克てよ。


 すべての受験生の健闘を祈る。
2009年2月15日

挑戦状を叩きつける (東京家学)

 約1年前、ある企業で働いていた友人が声をかけてくれ、その企業の一部門だった小さな家庭教師センターの再建に関わることになった。僕がそこに残っていたリソースを使ってやりたいと言ったことに、その企業の社長や働いていた社員の数人が共感してくれ、資金や事業所を割り当ててもらい、最終的に社内ベンチャーとして新規事業を立ち上げることになった。

 提案した事業の内容は、一言で表すなら「不登校の支援」だった。僕は学校に行かなかった期間が長く、その間に世間の冷たい目に晒されたことや、家族や親戚を悩ませた日々のことを振り返って、学校に行かない(行けない)子どもたちが否定されない社会を作りたいという想いで、「家は学校になる」というコンセプトを固めて走り出した。

 基本的には「子どもを肯定する」ことと、「学校に行かなくても最低限の学習を担保すること」を目標にした。具体的には、不登校の子どもの支援に興味のある大学生を見つけ、研修を行い、それを必要としている家庭とつなげ、両者を継続的にケア・サポートしていく、というシステムにした。

 そうしてはじまったのが「東京家学」だ。

 しかし、コンセプトや事業内容は固まったものの、具体的にどこまでを僕らが担えるのかは立ち上げ時点ではまったく分からなかった。実際に動き出すと、好きでやっていた「早稲田への道」を経てはじめた「道塾」とは違い、東京家学の立ち上げには様々な困難が伴った。

 既存組織のリソースを利用すると言っても、僕はそこで働いたこともなく、はじめは仕組みが分からず戸惑うことも多かった。そもそも僕はビジネスの世界そのものを知らなかった。無謀な試みであると感じたこともあった。実際に家庭に訪問し、子どもに接すると、その状況のどうしようもなさに途方にくれたりもした。

 とはいえ時間はどんどん過ぎていき、経費はひたすら積み重なっていく。「やりたいこと」や「想い」があっても、結果(利益)が出せなければサービスはそこで終わり。ビジネスは甘くない。

 焦る日々の中、ベテランのコンサルタントや不登校の専門家の助言をもらいながらサービスを詰め、なんとか事業として形を為して出発できるところまでいった。2008年3月から約4ヶ月の事業プラン策定、システム構築、試験版の運用などを経て、7月末から正式にサービスを開始した。

 教育に長年携わってきた人、特に不登校の問題解決に努めてきた人からしてみれば、僕らの事業は危なっかしいものに思えたろう。実際、子どもの一生に関わることを、ロクに大学も卒業してない半端者がやることに対する風当たりは厳しかった。その論調の根底にあるものは、教育には「不可逆性」がある神聖なものだから、そうたやすく踏み込んでくるなという意識があるように感じた。

 しかし、中には前向きに関心を示してくれる人もいた。心ある人がメディアに取り上げてくれたり、ウェブで好意的な記事を書いてくれたりした。それはすごく嬉しかった一方、実は不安を感じてもいた。不登校の問題は想像以上に根深く、解決が極めて困難なケースが多くて、メディアやウェブの記事を読んで申し込んでくるの人々の期待に応えられるかという不安だった。

 保護者の多くはやはり「すぐ学校に戻ってほしい」という気持ちが強い。だが、そのすべてに(子どもも家学も)即座に応えるのは容易ではないし、それがふさわしいとは思えないケースも存在する。不登校は「学校に戻す」ばかりが解決策ではない。「家にいながら学ぶ」ことが必要なケースもある。

 そうしたノウハウを蓄積している組織は少なく、だからこそ僕はこの事業の必要性を語ってきたのだが、手探りでやっていく過程では、全員が完全に満足できるサービスを提供できているとは言えなかった。成功の実例をもっと積み重ね、東京家学の方法論を確立すれば不登校に対する人々の考えも変わるはずだが、そこまではまだ遠い道のりだ。

 それでも、それを踏まえた上で言うならば、この事業を立ち上げてよかったと強く思う。あらゆることが上手くいったわけではないものの、実際に親や子どもの力になれたケースはたくさんあって、感謝の言葉をもらうことも多かった。立ち上げてまだ短い期間ではあるが、これまで走ってきた日々を振り返って、僕はこの事業の有効性を確信している。

 今回、事業のはじまりから1年を前に、僕は代表を降りることにした。もともとリーダーのいないチームだった。メディアに載る際に「代表」という存在が明確であった方がいいことに気づき、いくつかの理由から僕が代表になった。新規事業の立ち上げを提案した張本人という意識もあったし、立ち上げ期には向いているという自負もあった。

 ただ、東京家学の代表となったことで、道塾に関わる時間が決定的に減ってしまった。そのため、やりたいと思っていたことの幾つかはやれずじまいだし、やれたことにしても遅れることが多かった。中途半端になって、東京家学にも、(そうは思っていないだろうが)道塾にも迷惑をかけることがあって、自分の力不足を痛感する日々が続いた。

 そんな状況でも精一杯協力してくれた仲間のおかげで、東京家学は順調に動き出した。オペレーションが業務の中心となった 11月頃からは、既に僕ではないスタッフが中心的な役割を果たしてくれていた。僕はというと、年が明けてからはほぼ道塾にかかりきりになって、東京家学で実働することは減っていた。

 それについては了解の上でやってきたのだが、今回、2,3月と道塾・東京家学が共に動きがありそうなので、ちょうどいいタイミングだということで、話し合いの結果、僕は当初の役職である「アドバイザー」に戻り、今後の東京家学はオペレーションの中心を担ってきた平栗くんが率いていくことになった。

 彼は今年早稲田を卒業して、そのまま東京家学ではたらくことになる。卒業→代表なんて、なかなか普通の企業ではない面白い生き方だと思う。こういう風潮がもっと社会全体に生まれるといいのだが、この不況で衰退していくのが残念でならない。

 余談だが、東京家学を立ち上げさせてくれた企業が早稲田で就活生向けの説明会を行った際、「若手を積極的に主役にする会社です」という実例として僕とジョンのことを話したらしい。その場で聞いていた後輩が担当者に声をかけたら、「あの二人は面白いよね-」と笑っていたらしいが、そういう社風の中、飛び入りで事業の立ち上げを任せてもらい、貴重な経験ができたことを、関わったすべての人に感謝したいと思う。

 振り返ってしみじみと書いたから誤解されそうだけれど、辞めるわけではないので、あしからず。今後も(かける時間はだいぶ変わってくるが)僕は家学を側面から支えていきます。この長い文章は代表としてやってきた事業の総括のつもり。ここで、家学の立ち上げにあたってスタッフメッセージとして書いた文章を転載しておこう。

10年前の自分のために。

 (私立)中学中退、高校中退の後に、大検(現高認)を経て大学に入学しました。高校を辞める時、周囲から「あいつの人生は終わりだね」という声が聞こえてきました。約10年が経った今、私は幸いにも自分の進む道を見つけ、誇りを持って活動しています。

 必ずしも全員が学校に行く必要はない。誰もが学校にフィットするわけではない。それは食べ物の好き嫌いがあるように、また、人間関係に相性があるように、当然のことです。

 私は、「学校に行かねば社会の落ちこぼれだ」という世間のプレッシャーに、押し潰されそうになっている子どもにたくさん出会ってきました。そうした子を守るご両親の悲痛な叫びもまた、その子どもの数だけ聞いてきました。

 「学校に行かない」という選択肢があること。それは歴史を振り返れば、あるいは世界を見渡せば、当たり前のことです。

 現在の日本に根強い「学校に行かない子はおかしい」という偏見をなくしたい。「当たり前のこと」を伝えたい。

 「家は学校になる」というキャッチフレーズは、東京家学発、日本社会宛の挑戦状です。

 思うままに書いて、推敲をいれても30分足らずでさくっと書き上げたものだが、その分、僕の素直な想いが乗っていると思う。半年以上が経った今は、ちょっと時代の先を行きすぎていたなと思うものの、基本的な考えはなにひとつ変わっていない。むしろ多くの家庭を見て、子どもと話したことによって、社会への怒りは増したし、叩き付けたい挑戦状の数も増えた。このblogもまた、ひとつひとつのエントリーが日本社会宛の挑戦状のつもりだ。


 いい機会だから、最後に、僕のやり方を批判してきた人々(大人)に対する、僕なりの考えを記しておこう。
 
 彼らが僕を批判する理由は分かる。僕が未熟なのを指摘するのはその通りだと思う。ただ、そうした人の意見に納得できることは少なかった。これは、僕がこれまでよくされてきて、おそらく今後もされるであろう指摘であり、だからこそ根源的だと思うから、批判を承知の上で書いておきたい。

 僕が出会ってきた教育に携わる人(あるいは「大人」)の少なくない割合は、そのシステムの中で疲弊しきっていた。同時に、そのような人々に囲まれながらずっと放置され、希望を失いかけている子どもにも出会ってきた。かつては僕もそういう時期があった。そして不可逆な流れの中で、残念だが二度と希望を持てなくなってしまったような人とも出会ってきた。

 僕の人生のある時点で、道は二つに分かれていた。その分岐点で、僕は今に続く道を選ぶことができた。自らの意思で選び取ったわけではない。単純に、幸運だっただけだ。そういう僕にできることがあるのなら、それはやるべきことだ。そう信じて、やれるだけやってみようと走り続けてきた。

 だが、その意図を理解せず、助言も協力もしないまま、頭ごなしに否定する人がいた。それは、実に悲しいことだと思う。

 僕はそうした人々を非難するつもりはないし、記憶にある限り、非難したことはないと思う。実際、彼らの多くは精一杯やっている。疲弊した人でさえも、志があった頃があったはずだ。それが、いつの間にか折れてしまった。

 誰のせいだ?

 原因は人に求めちゃいけない。問題はいつもシステムにある。疲弊し、保守的になり、否定的になる人々が生まれざるをえないシステム。その環境が若者を取り囲んでいるが故に、再びそうした若者が再生産されるという悪循環。

 それこそが、「道塾」でも「東京家学」でも、変わらず僕が睨み続けている相手だ。若者を、日本を、ディスカレッジしている根源的な原因。それを変えていかなきゃならない。僕がこのタイミングで重心を東京家学から道塾へとシフトしたのは、そのための最善の手段を選んだに過ぎない。

 文句があるなら、口にする前に行動で示せばいい。

 何が正しいかなんて、結果以外じゃ判断できない。大切なのは、ベストだと信じる行動を取り続けること。それだけが結果を生み出し、社会をリアルに変えていく。

 僕は、これからも変わらず挑戦状を叩きつけていくよ。
2009年2月14日

バレンタインデー、愛です。

 今日着たTシャツ。


 さて。

 女の子からはじめてチョコをもらったのは小学校4年の頃だった。当時好きな子だったから、すごく嬉しかった。もったいなくて、ちょっとずつ囓って食べたを覚えている。

 が、それを除けば、僕にとってバレンタインは母と妹がチョコをくれる日に過ぎなかった。それも母親のは職場の人向けにデパートで買ってきたもので、妹のは付き合っている彼氏に作るヤツのオマケだった。

 当時は「男子校だから」という(苦しい)言い訳をしていて、そんな悲しい状況は大学に入れば変わると信じていた。しかし、2月は大学が休みなこともあるのかないのか、残念ながらもらうチョコの数はたいして変わらず。

 それが、今年はこんなにもらいました。最近、僕の周りにいる女の子たちは義理堅い上にお菓子を作るのが上手いことがよく分かり、とても嬉しい一日でした。どうもありがとう。









 って強がるのも疲れた。白状すると、上のチョコの幾つかは無理矢理もらったもの。来年こそ本命チョコがほしいよっ!
2009年2月13日

花粉症、はじまる。受験も、はじまる。

 「花粉症」という言葉が流行る前は「アレルギー性鼻炎」という言葉が主流だった。小さい頃によくそれで耳鼻科に連れて行かれたものだ。最近は手慣れたもので、近くの病院で処方箋を書いてもらい、薬局で薬を受け取るだけ。それでも、この病気のために輝かしいはずの春が来るのがちょっと憂鬱に感じられる。

 そもそも僕が花粉症になったのは、生まれてすぐに住んでいた場所のせいだと思っている。東名高速道路の終点、首都高に乗り入れる「東京IC」のすぐ横に家があった。その道路の上にかかる橋を渡ったところが僕の「公園デビュー」の地で、毎日のように通っていたらしいから、それは花粉症になるだろうな、と。

 道塾スタッフに砂川という沖縄県宮古島出身の一年生がいるのだけれど、沖縄には花粉もないし、排ガスも少ないためか、花粉症が存在しないらしい。それを聞いて、毎年このシーズンだけ沖縄に移住したいと本気で思った。

 受験生の頃は、僕もかなり気を遣って対策した。最近は「飛散前に処方薬を飲みはじめる」のと、「マスクをする」という習慣だけは守るようにしている。おかげで小学校の頃よりはだいぶ楽になった。処方薬を飲んでいない人が多いのに驚かされるが、色々種類があるし、体に合う薬はかなり効くから、早めに手に入れるに越したことはないと思う。

 花粉症がはじまると同時に、その対策をしていない受験生にはかわいそうだが、昨日から早稲田大学の入試もスタートした。残すところ、10日間。受験生全員に受かってほしいと思うが、現実はそうはいかない。だからとにかく、花粉症にも負けずに、全力を出し切れることを祈るのみ。
2009年2月12日

岡本太郎 『明日の神話』 日々を爆発させる

 山手線を渋谷で降り、乗り換えの井の頭線へ向かう途中で目に入ってきた『明日の神話』。メディアでも騒がれていたし、ホームページを見たこともあって存在はよく知っていたが、はじめて実物を見てその迫力に圧倒された。思わず立ち止まって写真を撮った。

 大学4年までは暇で仕方なかったので、時間を潰しによく美術館へ行った。すくなくとも月に1回は行っていたが、その中で岡本太郎に出会ったのは意外と少なくて、たしか国立近代美術館(の常設展のすみっこ)と青山にある岡本太郎記念館くらいだったと思う。

 これまで、本の中で語る岡本太郎と比べて、作品からは言葉ほどのエネルギーを感じることはなかった。銀座のソニービル近くにミニ太陽の塔みたいなのが立っているが、あれを見るたびにノーセンスだと思ってきた。岡本太郎の作品への期待が薄らいでいて、だから『明日の神話』が騒がれた頃も観に行こうと思わなかったのだろう。

 でも、観に行かなくて正解だった。感動を求めて美術館や世界遺産に行くのではなく、日常の中にいきなり踏み込んできて、岡本太郎のエネルギーが直球でぶつかってくるような、突然の出会い。こんな経験は、滅多にできるもんじゃない。それではじめて気がつくこともある。

 やっぱり、岡本太郎はホンモノだった。

 僕が芸術巡りをして行き着いた先は、「俺は芸術に向いてない!」ということ。でも今日の突然の出会いで、芸術ってやっぱりいいな、と一時はその道に憧れた人間として久しぶりに強く思った。岡本太郎も最高だが、『明日の神話』の設置場所にここを選んだ人も素晴らしい。

 絵を見て心が動かされたのは久しぶり。まぁ「絵」と言うはあまりにスケールが大きくて、心が動かされたというよりも鷲掴みにされたと言う方が近いが、おかげでその後の街並みがいつもと違って見えたし、テンションも高まった。

 ヘビーな鬱状態だった1月に比べて、2月はいい調子。感覚も、思考も、すべてが研ぎ澄まされていくのが分かる。こういう時は芸術に感動できるし、ひらめきが降ってくるし、未来を実現するもののように思い描くことができる。毎日が「爆発」している。

 このまま2,3月は過去にないスピードで加速していくよ。


 リンク 明日の神話 再生プロジェクト(@ほぼ日)
2009年2月11日

受験前日

 早稲田志望で地方から来る受験生はそろそろ東京入り。明日から文化構想、国際教養、スポーツ科学、法、理工、文、人間科学、教育、政治経済、商、社会科学、、、と入試日程が続く。塾生や「道」の読者からもちょいちょい連絡が届いていて、それぞれ思うところはあるが、僕が願うのは全員が全力を尽くすこと。

 先日、仕事が終わった後に道塾のスタッフ内で「受験生だった頃、泊まったホテルで何をしていたか」という話をしたら、エロ本を買ったり、ペイチャンネルを見たり、という話で盛り上がった。受験生なのに何やってんだと突っ込みたくなる話ばかりだが(もちろんそんなことをしないスタッフもいたが)、あまりシリアスになってもいいことはないわけで、実際のところそれくらいがちょうどいいのかもしれない。

 なにはともあれ、リズムを崩さないこと。不慣れな東京に出て、受験の連戦が続くと、どうしても生活が不規則になりがち。特に寝る前のパソコンと携帯。寂しくなって携帯をいじると、時間はどんどん過ぎていき、よけいに寝付けなくなり、焦って、さらに眠れなくなる。このダメなパターンにはまらないよう、寝る前の携帯はほどほどに。

 リズムが整うのを前提としても、全力を尽くすのは意外と難しい。僕は本番では120%を発揮できるタイプなので困ったことはないが、実際にはそうじゃない受験生の方が多い。ただ、「そうじゃない子の方が多い」ということさえ分かればすこし安心できるし、「120%を発揮できる」と毎朝・毎晩唱え続ければ、100%くらいまでは到達できるのではないかなと思う。すくなくとも、「勝負に強い」と言い切る僕でも、勝負の前はいつもそうしてる。

 家を出る時、これまでこなした参考書や問題集のうち、どれを持って行こうか悩んだ受験生は多いはず。それは、それだけの分量を積み上げてきたという証。人事は尽くしたのだから、後は天命を待とう。


 不安になってる受験生へ。

 本番での失敗は人生につきもの。大事なところでばかり完璧に行くほど、人生は甘くない。それで不安になることは、俺にだってある。そんなとき、最初からマイナスをプランに織り込んでおけば、その場で慌てることはない。誰もが失敗することはあるのだから、その迷いは断ち切ろう。

 そのために必要なのは、笑顔。試験前に、試験中に、そして終わった後にも、笑顔でいられたら緊張もほぐれる。そして、その笑顔がいい結果を呼び込んでくれる。全力を尽くす秘訣は、合格結果を聞いて笑顔になるのではなく、その前からずっと笑顔でいること。バカみたいでも、鏡に向かって笑顔をチェックしてみよう。

 合格する時と同じくらい笑えていれば、大丈夫。あとは最後の1秒まで諦めないでやってくるだけ。しっかり頑張れよ。
2009年2月10日

合コン


 銀座松屋ではたらく某フランス系化粧品店のマネジャーさんたちと、僕曰く「合コン」、(主宰者の)母曰く「合コンじゃない」、夜の会。名称はともかく、とにかく楽しい夜だった。ふだんはあまり早稲田周辺から出ない上に、仕事柄年上の女性と出会うことも少ないから、いい機会だと思っていろいろ勉強させてもらった。

 毎日睡眠3時間で松屋1Fを守り続ける「松屋のナポレオン」。そのナポレオンについていった元宝塚志望の役者さん。お二方から僕の知らない世界の話を聞かせてもらう。彼女らの積み重ねてきた日々は、表舞台の華やかさからは想像できない。フロアでふりまく笑顔の裏には、いろんな困難があるのだな、とはじめて知った。

 ほかにも、百貨店から見える現在の経済情勢にはじまり、お客さんの心境の変化、果ては年上の女性の口説き方まで、話は尽きない。その中で言われて印象深かったこと。僕は、あまり年上の女性は向いてないそう(対して、一緒に行ったシオバラ正ちゃんは向いているそう。ずるい)。



 だいぶ盛り上がって、結局ほぼ最後の客として店を出る。終電ギリギリの山手線に乗って、高田馬場から歩いて家に向かう途中、電気のついた事務所に立ち寄るとパソコンに向かう揚げ男がいた。それを見ながらいつの間にかソファーで眠ってしまったが、目を覚ますと揚げ男は6時間前と同じ姿勢で黙々とhtmlとcssを学んでいた。

 酒を飲む間も、眠る間も、道塾は回り続ける。ひとりひとりが速くなり、全体のスピードは加速度的に上がっていく。二人の素敵な女性の働きぶりも凄まじかったが、僕らもそこまで負けていないと思う。いいチームになってきた。
2009年2月9日

blogのアイデアが思いつかない

 体調はいい。頭の調子も、だいぶいい。なのになんで思いつかないのだろう…と考えてみたら、三つの原因が思い浮かんだ。

 ひとつには、年が明けてから仕事の中心が道塾にシフトして、日中の移動が減ったために外部の刺激を受けることが減ったのがひとつ。ふたつめは仕事の量が増えたため、本やウェブに割く時間がいくらか減っていること。そして三つ目は、その結果として「メモ」の総量が減っていることだ。

 メモは最終的にウェブ上のメモ置き場に溜まっていく。思いついたら即座にiPhoneやパソコンから書けるようにしてあるのだが、自分の思考のたまり場であるこのサイトの情報量が、僕がどれだけ「思考」をしたかのバロメーターになる。最近それが減っているのが、アイデアが思いつかない直接的な原因だ。

 メモの総量が減ると、メモを取る習慣も疎かになってくる。すると、メモの総量が減る→メモを取る習慣が疎かになる→さらにメモの総量が減る、という悪循環が生まれる。それを断ち切るために、今日から改善していこうと思う。
2009年2月8日

ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ

 サブタイトルは、「世界を変えてみたくなる留学」。 

 高校を辞めてしばらくして、日本の大学に行くか留学するかで迷っていた頃、日本の大学に行くならその先で松下政経塾を、留学するならケネディ・スクールを目指そうとしていた(いろんな意味で若かった)。留学なんてすっかり頭から消え去った最近、この本を読んでいてふと気がついた。

 僕が「いいな」と思う人は、人生のどこかで海外に住んだ経験のある人が多い。とりわけアメリカを経ている人が圧倒的だ。考えれば考えるほど、そうした人たちの顔が思い浮かぶ。

 ただ、意外だったのが、彼らのうちで学部時代に留学した人が少ないこと。周りを見渡すと10人に1人以上は1年間くらいの学部(交換)留学に行っているが、僕が思い浮かべた人の多くは、しばらく働いた後で大学院留学をしたり、あるいは会社から派遣されて駐在していた。

 今と昔で状況はまったく違うから、周りの学部時代に留学する人たちを否定するつもりはさらさらない。ただ、学部時代にある種の憧れを持って海外に行くのと、日本で社会人としてある程度の経験と能力を培った後で海外に行くということでは、向こうで受ける印象、学び取ることは変わるのかもしれないと思う。

 すこし前に、日本で社会人として一定期間過ごした後でシリコンバレーに駐在した人と話した時、彼が当時のことを振り返って「無意識に持っているプライドがゼロになる」と語っていた。視野が広く、そして芯のある彼が経てきた経験と、僕が「いいな」と思う部分には、どこかでつながりがあるのかもしれない。

 そんなことを考えるきっかけとなった『ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ』の巻末では、著者の想いがこんな風に語られていて、それもまた「いいな」と思う。
 
「自分が他人と共有する空間と時間……それがたとえば学校のクラスや部活、企業や役所で配属された課や係、そして我が家といった小さな場所であっても、それをより良いものとしていくために何が必要かを自問自答し、そして仲間とともに行動していこう。それが世界をより良い場所に変えてみる一歩かもしれないよ」

 自分の身近な場所でも「よくしよう」とはなかなか思えない。「ゼロになる」経験を経るからこそ、自分の凝り固まったプライドを捨て去って、外側にいる「他者」へ想いを馳せることができるようになるのかもしれない。

 岡本太郎は「積みへらす」ことが大事だと言っていた。はじめて読んだ時も「なるほど」と思ったが、その時とは別の意味で、積みへらしてはじめて実感できるものがあるかもしれないと思うようになった。

 僕は大学に入ってから「積み重ね」続けてきて、ゼロになるのとは正反対の道を歩んできた。去年はその道の果てで「何かを得るために、何かを捨てなくてはならない」という思いで一年を送ってきた。だが、その中に間違いが混じっていることに、最近ようやく気がついてきた。

 捨てるのと、積みへらすのは違う。捨てるだけじゃ得られないものがある。僕はたくさんのものを捨ててきた。これからはすこし進歩して、やたらと捨てずに、すこしずつ積みへらしていきたい。大切なのは、あるものを積み重ねながら、同時にあるものを積みへらしていくということなのかもしれない。
2009年2月7日

ロックアウト

 2月に入ったばかりだというのに、外に一歩出ると春のような陽気。歩くのが気持ちいい。昼飯を食べて家に戻ろうとして大学(大隈講堂)の前を通ると、付属高校の卒業式が行われていて多くの父兄が詰めかけていた。

 僕の母にはこういう姿を見せてないな・・・なんてことを思いつつ後ろを振り返ると、大学の正門が閉じられていた。入試へ向けて、ついに大学もロックアウトしたようだ。警備員に「今日はどこの試験ですか?」と聞くと、「まだ今日はやってないよ」という返事。どうやら準備日らしい。

 来週からいよいよ早稲田大学の一般入試がはじまる。この時期は大学全体が穏やかな緊張感に包まれるが、この空気は嫌いじゃない。

 受験というのは単純に実力の勝負だ。結果がどうであれ、最終的にそれを受け入れ、次に進んでいく以外に道はない。だから、大切なのは結果が出る最後の瞬間まで諦めないこと。僕が塾生をはじめ、関わった受験生に願うのはそれぞれが全力を発揮してくれることだけだ。

 「諦めたらそこで試合終了ですよ」というスラムダンクの安西先生の言葉を、僕は受験生の頃に何度かみ締めたことだろう。

 あれから6年が経ち、多くの人と出会う中で、その言葉の意味がもうすこし深いところで分かるようになった。それは受験という小さな枠ではなく、人生という枠でもそうだということだ。

 諦めたら試合終了。ゲームセット。最後の1秒まで諦めないで走り続けられるか。いつも受験生にそう言っている僕こそが、誰よりもそうでありたいと思う。
2009年2月6日

僕が知る中で誰よりもピュアで繊細な友人について

 僕の仲間の194日目のブログを読んで思ったこと。自分の「死」を意識しながら、すなわち「人生を賭して」生きている奴ほど強いものはないな、ということ。そして、そんな彼が僕は大好きだ。

 新 NEW SHINE

僕は、あまり長く生きていけないだろう、
なにか自分が障害者である様な気分なんだ

正直、こんな感覚がある。
いや、不思議だがネガティブには全然思わない


それから少し挟んでこう続く。

せっかくこの年になるまで生きられたから、
素敵な仲間や家族に恵まれたから、
自分のためじゃなく、
少しでもpublicが良くなればいいと思う

こんな思いの傷を日本や社会に残したい
そして、死んでいきたいと思う

だから、
きれいごとかもしれないけど、
完全にピュアな曇りもない眼で言える

僕は直接的に
困っているものや人
可能性がある人やもの

解き放っていきたい

そして、
今はそのための術を手に入れたい

これで死んだら、本望だ

これが僕の答えです


  今日のエントリー(197日目)でもすこし触れられていたが、ある業界で日本のトップを走り続ける会社で、すこし前に過去を遡ってもないような営業記録を樹立し、今もまた作りつつあり、、、しかしそんな彼は今年中にその会社を辞めて次なるステージへ、それも随分とチャレンジングな場所へ行こうとしている。

 そんなアホらしいことにワクワクしながら、今日もKAZUのユニフォームを着て満足げに寝ている彼を思い浮かべながら、僕は思う。

 こう書かざるをえない理由は知ってる。仕事を辞めるのは歓迎するよ。でも僕は、彼が「惜しまれながら死んでゆく、英雄」にはなってほしくない。"Too Late To Die"なんてことは、俺からすれば、いつまでたってもないんだぜ。



 こんなかっこ悪い死に方をする奴は、日本じゃ三島由紀夫ひとりで十分だ。それよりも。

 僕はいつも意識してる。わずか29歳で死んだ吉田松陰。そして、後を追うように27歳で死んだ高杉晋作。彼ら二人は、いつも死を覚悟して、人生を賭けて生きていたように思う。今の僕からは、あとわずか5年、3年。そして、僕の仲間は、あの二人とダブって見える。

 でも、そう簡単に死んじゃ困るぜ。俺もまだまだ生きるつもりなんだから。そんなかっこいい「英雄」になってもらっちゃ、いつまでたっても追いつけないだろ? だから、最後の最後まで生ききってほしいと思う。だってまだ、再び一緒に仕事をしてないじゃないか?
2009年2月5日

ブログと料理と終わりなき旅

昨日の平山飲みで、


作った料理2品。結構うまそうに見えると思うのだけれど、どうかな。


 男にしてはわりと料理をする方だった。大学に入ってはじめの4年間は時間があったから、ラーメンを出汁から作ったり、圧力鍋を買ってきて角煮を作ってみたり、、、いろいろと凝った料理も作っていた。

 料理を作るのは好きだ。「美味しい」と言ってくれる人がいれば作りたくなる。元々の性格なのだろうが、人が喜んでいるのを見ることが嬉しい。

 最近は料理の代わりに仕事をしているように思う。文章を書くのも、HTMLを組むのも、電話の相談に乗るのも、どこかで出会った「素材」を、自分というキッチンで調理して、相手に届けているような感覚。キッチンの性能は高くないが、いい素材と出会えているおかげで、なんとか日々やっていけている。

 ただ。

 料理にはレシピがあるけれど、人生はそうじゃない。

時代は混乱し続け その代償を探す
人はつじつまを合わす様に 型にはまってく
誰の真似もすんな 君は君でいい
生きる為のレシピなんてない ないさ

        Mr.Children『終りなき旅』(以下、同じ)

 だから。

息を切らしてさ 駆け抜けた道を
振り返りはしないのさ

ただ未来へと夢を乗せて



 素敵な素材に囲まれて僕は幸せです。おかげさまで、今日でblogのエントリーが200本目。でも、旅はまだまだ終わらない。

閉ざされたドアの向こうに 新しい何かが待っていて
きっときっとって 君を動かしてる
いいことばかりでは無いさ でも次の扉をノックしよう
もっと素晴らしいはずの自分を探して

 ちょっと風邪気味だけど、最近また次のステージに入ったみたいで良い感じ。ますますスピードアップしていくよ。



 僕の人生ベストソング、今日は「あなた」に捧げます。
2009年2月4日

平山ビル、残り1ヶ月

 2月末で契約更新となる平山ビル。それにあわせて大半の住人が入れ替わる。予定だと25歳の4人は全員出ていき、更新後も残るのはコテツ君とたっくんの二人だけになる予定。平均年齢が一気に若返りそうだ。

 住み始めて2年。入れ替わりもあり、その間にここで暮らした住人は計8人。大きな喧嘩もなく(危機はよくあったけれど笑)、よく続いたと思う。僕はかなり迷惑をかける側だったが、なんだかんだで皆優しいので追い出されずにすんだ。

 「シェアハウスで暮らそう」と思い立ち、高校時代からの付き合いで、早稲田の寄席研を経てプロとして芸人をやっている聖二に声をかけたのが事のはじまりだった。インターネットで物件を調べ、翌朝すぐに不動産屋に行くと「この上だよ」と案内されて、ほぼ即決だった。

 とりあえず二人で仮契約したものの、家賃を払うには最低もう三人は必要だった。友人に片っ端から声をかけて入居希望者を探してもらって、見つかったのが竜二とたっくんと逸見ヤス。

 他の五人のメンツを見て怖じ気づいたのか、煮え切らないたっくんに「シェアがいかに素晴らしいか」を語り、「騙されたと思って、俺を信じてくれ」と強引に入居を決めさせたのだけれど、その彼は昨夜、「この家住んでほんとによかったですよ。人生で一番濃い2年でした。」と笑顔で言ってくれた。

 シェアハウスをしようと決めた理由は当然家賃もあるが、もうひとつは「生活レベルでの人間性」を磨きたいという思いがあった。当時の僕はトルストイ信者で、よく「愛が大切だ」みたいなことを口走っていたのだけれど、掲げる理想と現実の自分との乖離を感じていた(まぁトルストイ本人もそんな感じの人間ではあったが)。

 どんな綺麗事を言っても、生活レベルでは隠せないものがある。そこで本当に他者を思いやれるかどうか。口先だけじゃない生活レベルの人間性。それを追い求めて2年間という時間をここで暮らしてきて、分かったことは、僕は生活レベルの人間性はダメだということ。笑

 まぁ、それでも。

 最初の志高きシェアハウスから比べると見る影もなく、反省も多いが、それでも、本当にここに住んでよかったと思う。こんな僕を受け入れてくれた同居人たちと一緒に飲んだ日々を忘れることはないだろう。

 あと1ヶ月。たぶん人生最後のシェアハウス。思いきり楽しみたいと思います。
2009年2月3日

厚意で(なんとか)成り立っている道塾


 道塾はこの一週間くらい、急激な電化が進んでいる。

 レーザープリンタの導入、電話&FAXの導入などが続いたが、メインは友人がくれたパソコン。ディスプレイが旧式で大きいので液晶だけ新たに購入して、自前のノートパソコンを使っていたみっちゃん用に。事務方の心臓であるみっちゃんのパソコンが新調されたことで、道塾全体がスピードアップしそうだ。


 部屋を見渡すと、この事務所は人の厚意で成り立っているな、と思う。今回のパソコンだけでなく、本棚やスチール棚はすべて人からのもらいもの。家賃も不動産屋のおばちゃんと大家さんのご厚意で相場よりずいぶん安くしてもらっている。

 事務所に来るたびに差し入れを持ってきてくれる人もいて、おかげでいつも僕らの腹は満たされている。あるいは道塾を人に勧めてくれたり、アンケートに答えてくれたり…。そう言い出すときりがなくて、そもそも働いてるスタッフ全員が厚意で働いていると言えるかもしれない。

 まぁでも、そうした「厚意」で世界が回っていったら素敵だなと思う。もちろんそれだけじゃ回らないのがビジネスの世界だけれど、これからやってくる怒濤の日々において、いつまでもその感覚を忘れないでいたい。
2009年2月2日

実家へ戻る

 日曜日、電車で1時間半くらいの実家へ戻った。今回は会社化へ向けた書類を取りに行くのと、恒例の家族会議とが目的。月に1回くらいのペースで行われるこの話し合いは我が家の行事としてすっかり定着した。

 まずは酒を入れずに互いの近況報告。前回から変わったこと、今後やろうとしていることなど。女二人は(特に母は)放っておくといつまでも喋るので、僕が進行役を務めてペースアップ(結局僕がいちばん喋ることも多いのだが)。30分から1時間くらい話してから夕食を食べに家を出る。

 元々は家で質素に食べる家族なのだけれど、僕が東京に出て以来、僕が帰る時は外食へ行くことが多くなった。この日は母が見つけてきた鰻屋に行き、ひつまぶしをいただいた。家の近くにこんないい店があるなんて、と驚かされるくらい美味い。



 汲み上げた地下水が流れ続ける店内の水槽。生きた鰻や鰌(どじょう)や鯰(なまず)が泳いでいた。


 母と妹。


 満腹になって店を出て向かった先は家から30秒のダーツバー。3人でカクテルを飲んでいると、妹の成人式を終えた母が「もう私の役目は果たしたわね」とつぶやいた。その顔がずいぶんくつろいでいるようで、僕もすこし安心した。

 家に帰って「充実した一日だった」と嬉しそうに言う母を見て、僕も妹もちょっと嬉しくなる。言い出した母にしぶしぶ付き合う形ではあるが、鰻を食べ、酒を飲み、こうして家族3人が顔をつきあわせる一夜はなかなかいいものだと思う。昔じゃとても考えられなかったから。

 朝起きるといつの間にか(昔は当り前だと思っていた)飯の仕度ができていた。夜の豪勢な料理もいいものだが、久しぶりに実家へ帰るたび、シンプルな朝飯に感動する。用がない限り実家に帰ろうとも思わないのだが、東京で食べるどんな高級料理より、家で食べる白飯、味噌汁、卵焼きの方が美味しいのはなぜなのだろう。
2009年2月1日

「世界がよくなる」という幻想を超えて 原丈人と公益資本主義

 「世界をよくする」「社会を変える」。そんなセリフを聞くことが増えた。僕がそうした世界に踏み込んでいるというのもあるのだろうが、それ以上に、時代的な流れがあるように感じる。オバマを引き合いに出すまでもなく、危機においてはヒーローの誕生が熱望される。日本においても数年前から「社会貢献」のムーブメントが勢いを増しているが、未曾有の不況となる2009年は「社会を変える人々」が主役になる可能背が高い。

 でも、はっきり言おう。社会はそう簡単に変わらないし、世界はそんなによくならない。だから、安易に「世界をよくする」「社会を変える」という潮流に乗らないことが大切だ。それは心のどこかで持ち続けていい。時には行動につなげてもいい。でも、流行の服を着るように世界をよくしようというバッジを身につけても、その先に待っているのは「結局、変わらないじゃないか」という絶望だ。

 僕らは生きていく過程で「物語」を欲する。一般的に言って、優秀であればあるほど、その能力を賭けるに値する大きな物語を求めるものだ。けれども、「いい大学に入って、いい会社に入って、いい人生を送る」という物語の前提が崩れた今、僕らはどんな物語を生きればいいのだろうと思い悩む。そう考えて立ち止まった時、ちょっとデキる若者が目の前に「世界を変える」「社会を変える」という壮大な物語を差し出されれば、それに飛びつくのは想像に難くない。

 けれども、それは虚構の物語だ。でっちあげられた法螺話だ。そのような「世界をよくする教」に入信してたどり着く先は、「いい大学に入って、いい会社に入って、いい人生を送る」という物語を追い求めた末に、それが崩れて「俺の人生は何だったのだろう?」と絶望する哀れな人と変わらないだろう。それを忘れない方がいい。

 もはやこの国の民が経済的に豊かになっていく感覚を持つことはないだろう。相対的に見て、日本の状況は悪くなっていくばかりだ。特に「世界をよくする」「社会を変える」ということに限っていえば、民主主義も上っ面だけで制度も未整備なこの国では、どんなに民衆が「社会を変えよう」と叫んでもそれを許さない現実がある。それに加えてこの大不況だ。結果、これから出てくる「社会を変える」人々の多くは、ITバブルの崩壊と同時に消えた人々と同じ運命を辿るだろう。

 繰り返すけど、社会はそう簡単に変わらないし、世界はそんなによくなりはしない。

 だから諦めよう、と僕は言いたいわけじゃない。そうじゃなくて、社会を変えたり世界をよくしたりするのは、それだけの困難を伴うのだ。だから、それを覚悟の上で踏みだそう、ということだ。困難を承知の上で引き受ける。難しいからこそ踏み出す。しっかりと地面を踏みしめて、一歩ずつ。それこそが生きていくってことだろう。

 世界をよくするとか、社会を変えるとか、そんな大それたバッジを身につけなくても日々実践しつづけているすばらしい人々がいる(もちろんそれを身につけてても素晴らしい人はたくさんいる。念のため)。難しい問題に立ち向かい、自分の頭で考えて、自分の足で行動している人たちだ。そうした人々の中で、最近知ったホンモノの一人、原丈人。藤末健三のblogで知ったのだが(この人もホンモノの一人だ)、彼の語る「公益資本主義」には興奮させられた。この主張は今の日本の希望になり得るとさえ思う。

 一過性のブームに乗るのではなく、長く続く基本的な仕組みを作ろうとする彼のやり方は、ほんとうに世界をよくする可能性がある。公益資本主義による新たな市場ができるとすれば、早くて2,3年後だろう。安易に「社会を変える」という波に乗らず、地道にそこでの株式公開を目指してやっていくのも悪くないのかもしれない、なんてことも思わせてくれた。

 とにかく、ブームという一時の波に飲み込まれないことが大切だ。どんな大きな波だっていつかは崩れることを前提に、はるか彼方を見据えつつ、日々やってくる小さな波を乗りきっていきたい。


 参考:ほぼ日での糸井重里x原丈人の対談  (公益資本主義に関しては3「コンピュータ以上に便利な道具」と 「新しい株式市場」をつくるという話」が詳しい)

 追記:世界をよくする、と日本(社会)を変える、は混同されがちだし、事実今回は一緒にして書いたけれど、実は重大な違いがあると思う。それについてはまた今度。