2009年2月8日

ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ

 サブタイトルは、「世界を変えてみたくなる留学」。 

 高校を辞めてしばらくして、日本の大学に行くか留学するかで迷っていた頃、日本の大学に行くならその先で松下政経塾を、留学するならケネディ・スクールを目指そうとしていた(いろんな意味で若かった)。留学なんてすっかり頭から消え去った最近、この本を読んでいてふと気がついた。

 僕が「いいな」と思う人は、人生のどこかで海外に住んだ経験のある人が多い。とりわけアメリカを経ている人が圧倒的だ。考えれば考えるほど、そうした人たちの顔が思い浮かぶ。

 ただ、意外だったのが、彼らのうちで学部時代に留学した人が少ないこと。周りを見渡すと10人に1人以上は1年間くらいの学部(交換)留学に行っているが、僕が思い浮かべた人の多くは、しばらく働いた後で大学院留学をしたり、あるいは会社から派遣されて駐在していた。

 今と昔で状況はまったく違うから、周りの学部時代に留学する人たちを否定するつもりはさらさらない。ただ、学部時代にある種の憧れを持って海外に行くのと、日本で社会人としてある程度の経験と能力を培った後で海外に行くということでは、向こうで受ける印象、学び取ることは変わるのかもしれないと思う。

 すこし前に、日本で社会人として一定期間過ごした後でシリコンバレーに駐在した人と話した時、彼が当時のことを振り返って「無意識に持っているプライドがゼロになる」と語っていた。視野が広く、そして芯のある彼が経てきた経験と、僕が「いいな」と思う部分には、どこかでつながりがあるのかもしれない。

 そんなことを考えるきっかけとなった『ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ』の巻末では、著者の想いがこんな風に語られていて、それもまた「いいな」と思う。
 
「自分が他人と共有する空間と時間……それがたとえば学校のクラスや部活、企業や役所で配属された課や係、そして我が家といった小さな場所であっても、それをより良いものとしていくために何が必要かを自問自答し、そして仲間とともに行動していこう。それが世界をより良い場所に変えてみる一歩かもしれないよ」

 自分の身近な場所でも「よくしよう」とはなかなか思えない。「ゼロになる」経験を経るからこそ、自分の凝り固まったプライドを捨て去って、外側にいる「他者」へ想いを馳せることができるようになるのかもしれない。

 岡本太郎は「積みへらす」ことが大事だと言っていた。はじめて読んだ時も「なるほど」と思ったが、その時とは別の意味で、積みへらしてはじめて実感できるものがあるかもしれないと思うようになった。

 僕は大学に入ってから「積み重ね」続けてきて、ゼロになるのとは正反対の道を歩んできた。去年はその道の果てで「何かを得るために、何かを捨てなくてはならない」という思いで一年を送ってきた。だが、その中に間違いが混じっていることに、最近ようやく気がついてきた。

 捨てるのと、積みへらすのは違う。捨てるだけじゃ得られないものがある。僕はたくさんのものを捨ててきた。これからはすこし進歩して、やたらと捨てずに、すこしずつ積みへらしていきたい。大切なのは、あるものを積み重ねながら、同時にあるものを積みへらしていくということなのかもしれない。