2009年2月1日

「世界がよくなる」という幻想を超えて 原丈人と公益資本主義

 「世界をよくする」「社会を変える」。そんなセリフを聞くことが増えた。僕がそうした世界に踏み込んでいるというのもあるのだろうが、それ以上に、時代的な流れがあるように感じる。オバマを引き合いに出すまでもなく、危機においてはヒーローの誕生が熱望される。日本においても数年前から「社会貢献」のムーブメントが勢いを増しているが、未曾有の不況となる2009年は「社会を変える人々」が主役になる可能背が高い。

 でも、はっきり言おう。社会はそう簡単に変わらないし、世界はそんなによくならない。だから、安易に「世界をよくする」「社会を変える」という潮流に乗らないことが大切だ。それは心のどこかで持ち続けていい。時には行動につなげてもいい。でも、流行の服を着るように世界をよくしようというバッジを身につけても、その先に待っているのは「結局、変わらないじゃないか」という絶望だ。

 僕らは生きていく過程で「物語」を欲する。一般的に言って、優秀であればあるほど、その能力を賭けるに値する大きな物語を求めるものだ。けれども、「いい大学に入って、いい会社に入って、いい人生を送る」という物語の前提が崩れた今、僕らはどんな物語を生きればいいのだろうと思い悩む。そう考えて立ち止まった時、ちょっとデキる若者が目の前に「世界を変える」「社会を変える」という壮大な物語を差し出されれば、それに飛びつくのは想像に難くない。

 けれども、それは虚構の物語だ。でっちあげられた法螺話だ。そのような「世界をよくする教」に入信してたどり着く先は、「いい大学に入って、いい会社に入って、いい人生を送る」という物語を追い求めた末に、それが崩れて「俺の人生は何だったのだろう?」と絶望する哀れな人と変わらないだろう。それを忘れない方がいい。

 もはやこの国の民が経済的に豊かになっていく感覚を持つことはないだろう。相対的に見て、日本の状況は悪くなっていくばかりだ。特に「世界をよくする」「社会を変える」ということに限っていえば、民主主義も上っ面だけで制度も未整備なこの国では、どんなに民衆が「社会を変えよう」と叫んでもそれを許さない現実がある。それに加えてこの大不況だ。結果、これから出てくる「社会を変える」人々の多くは、ITバブルの崩壊と同時に消えた人々と同じ運命を辿るだろう。

 繰り返すけど、社会はそう簡単に変わらないし、世界はそんなによくなりはしない。

 だから諦めよう、と僕は言いたいわけじゃない。そうじゃなくて、社会を変えたり世界をよくしたりするのは、それだけの困難を伴うのだ。だから、それを覚悟の上で踏みだそう、ということだ。困難を承知の上で引き受ける。難しいからこそ踏み出す。しっかりと地面を踏みしめて、一歩ずつ。それこそが生きていくってことだろう。

 世界をよくするとか、社会を変えるとか、そんな大それたバッジを身につけなくても日々実践しつづけているすばらしい人々がいる(もちろんそれを身につけてても素晴らしい人はたくさんいる。念のため)。難しい問題に立ち向かい、自分の頭で考えて、自分の足で行動している人たちだ。そうした人々の中で、最近知ったホンモノの一人、原丈人。藤末健三のblogで知ったのだが(この人もホンモノの一人だ)、彼の語る「公益資本主義」には興奮させられた。この主張は今の日本の希望になり得るとさえ思う。

 一過性のブームに乗るのではなく、長く続く基本的な仕組みを作ろうとする彼のやり方は、ほんとうに世界をよくする可能性がある。公益資本主義による新たな市場ができるとすれば、早くて2,3年後だろう。安易に「社会を変える」という波に乗らず、地道にそこでの株式公開を目指してやっていくのも悪くないのかもしれない、なんてことも思わせてくれた。

 とにかく、ブームという一時の波に飲み込まれないことが大切だ。どんな大きな波だっていつかは崩れることを前提に、はるか彼方を見据えつつ、日々やってくる小さな波を乗りきっていきたい。


 参考:ほぼ日での糸井重里x原丈人の対談  (公益資本主義に関しては3「コンピュータ以上に便利な道具」と 「新しい株式市場」をつくるという話」が詳しい)

 追記:世界をよくする、と日本(社会)を変える、は混同されがちだし、事実今回は一緒にして書いたけれど、実は重大な違いがあると思う。それについてはまた今度。