2年前の今日、道塾のホームページを公開して入塾を受け付けた。最初は1月で5人くらい申し込みがあればいいなと思っていたのが、あっという間に10人くらいが申し込んでくれた。あの時の驚きは忘れられない。
2年目の受験が終わって代が変わり、今日から3年目。シェアハウスの隅で、わずか一人ではじめたこの塾も、今やスタッフ7名を数え、素晴らしき仲間たちと共にまた新たな一歩を踏み出そうとしている。
受験生が皆抜けたにも関わらず、この1ヶ月で多くの入塾があり、既に2年目の塾生の最大数を超えた。人数は爆発的に増えているが、その分だけ心強い仲間が増え、一人一人のやる気も能力も上がっているので、質は下がるどころかより一層高くなるだろう。
道塾に2年間在籍して早稲田に合格したある塾生のアンケートには、「2年目はあらゆる面が改善されパワーアップされていてよかった」と書いてあった。来年もまたそう言われるために、日々スピードを上げ続けていくよ。
開塾当時は手作りのダサくて胡散臭いホームページで、今じゃ「よくあんなホームページで入塾してきたヤツがいるよな」なんて笑い話になるけれど、その分、一行一行には想いを込めて文章を書いていた。
その、最初の文章がこれ。
◆道塾 開塾にあたって(2007.03)
「早稲田への道」を建ててから3年半。
その間、4回の受験があったが、
多くの読者を得て、
想像をはるかに超える反響と、結果を残せた。
ここまでたどり着けたのは
毎年3月頃にたくさん届く
早稲田への合格報告の書き込みや
メールのおかげだと思う。
早稲田に落ちてしまっても、
おかげで~大学に受かりました、とか
一年間がんばれたのは「早稲田への道」のおかげです、
なんて言ってくれるやつもいて、
誰もが志望校に受かるわけではない受験において、
こうした言葉は俺にとって何よりの救いになった。
時には批判もあった。
されるべき点は甘んじて受けるし
そうじゃないと思う部分にはそう言ってきた。
受験技術には自信があっても、
俺の対応の仕方は、正直言って反省だらけだ。
でも、それを含めても、やってきてよかったと今は思う。
ただ、自分自身がそう納得できたのは、実は最近のこと。
スレを建ててから最初の3年間は、
早稲田への道をやっていることを、周りには言わなかった。
そもそも2chでスレを持っているなんて
かっこいいことじゃないというのは、誰にだってわかること。
でも、いろんな想いや理由があって、
例えば、あまり機会は多くないけれど、
飲みながら受験時代を振り返って語る場面や
あるいは友達の兄弟から相談を受けるといった場面で
早稲田への道について公言することを厭わなくなった。
そうしていくうち、大学の内外で、
早稲田への道を見てました、
あのスレと出会えたおかげで今があります、
なんて言ってくれる奴に出会うようになった。
長い付き合いの後輩の中にもいて、
お前が? みたいなことも少なからずあった。
俺がuであり、その俺と出会えたことを
涙ながらに喜んでくれる人がいた。
その驚きと喜びとの入り混じった表情が、
スレを続けてくることができて
本当によかったなと、深く感じさせてくれた。
スレを建ててから、
「道は自分でしか歩けない、
俺やこのスレッドをはじめ、
あらゆる情報は自分の道標になるに過ぎない、
必要なのは逃げ出そうとする己に克つ力だ」
という意味のことをずっと言い続けてきた。
今でもこの考え方に変わりはない。
ただ、4回の受験を見てきて痛切に感じたことがある。
それは、己に克つ、と口でいうのは容易いけれども
自分ひとりで己に克つのはとても難しい、ということ。
矛盾しているようだけれど、
己に克てるのも、他人の助けがあってこそなんだな、
ということを俺は痛感したんだ。
道標としての俺の方法論は、
数ある受験技術の中でもかなりベストに近いものだ、
と今は自信を持って言える。
大学受験をゼロから始めるようなレベルから
一年足らずで早稲田に受かるなんて
ふつうに考えてみれば信じられないことだけれど、
「早稲田への道」では十分にあり得ることになっている。
効果や結果についてはログを何度も読み返し、
すこしでも実践すればすぐに納得できると思う。
だから、ここで多くを語ることはしない。
俺が言いたいのは
自分ひとりで歩いて行く上での「気持ち」の問題だ。
道をひとりで歩ききれるかどうか。
それが自分の意志の問題だと言えばそれまでだ。
だが、生まれてはじめての
見たこともないくらい高い、受験という壁。
それを目の前にして
ひるむことなく超えられる奴は、
4年のあいだ、ひとりも見なかった。
俺自身、受験期を振り返ってみれば
強がってはいても不安があったのを思い出す。
自分の志が高かったから
努力によって合格できたんだ、
と豪語することはできる。
でも、志を高く保てたのも、
実力を着実につけていけたのも、
幸運が積み重なったからこそだったんだな
と、あるときに気がついた。
家族は当然のように俺を支えてくれたし、
義理もないのに応援してくれた人もいた。
ともすれば一人で悩みがちな俺に
中学時代からの友人は声をかけてくれたし、
初恋が受験へのモチベーションにもなった。
本番に強いという性格もあって、
第一志望では120%の実力を出しきれた。
でも中には、
家族には見捨てられかけていて、
友達も一人もおらず、
恋愛なんてとんでもない、
本番は緊張して実力の半分も出せない、
なんていう奴もいるんだということを、
メールで対応していくうち、驚きと共に知った。
もちろんこんなひどい例は少数だけれど、
多かれ少なかれ世の中は不条理で、
その時々で何が起こるかは分からないし、
自分ひとりで解決できないことも多い。
そうした思いが強くなっていた4年目は、
妹の受験とちょうど重なったこともあって
電話やメールでの相談を今まで以上に受けつけた。
その過程で、受験技術をどれだけ活かせるかは
気持ちの問題がとても大きいということを感じた。
気持ちというのは
それ単体で独立しているわけではなくて、
志の強さだったり、
成績の伸びだったり、
周囲との関係だったり、
勉強の進み具合だったり、
たくさんのことが互いに関係し合っている。
たとえば、つらいと思っていても、
実力がついているのを実感できたり、
成績が上がったのが具体的に分かったりすると、
苦もなく勉強し続けられるようにもなるものだ。
受験技術を活かすも殺すも、
結局はいかに気持ちを維持できるか、
ずっと上向きのままでいられるか、
それによって決まる。
逆のことも言えて、
気持ちを上向きで維持できるか否かは、
受験技術を活かし続けて、
壁にぶち当たって悩んだり
間違った方法によって遠回りをしたりすることを
いかに避けられるかが、とても大きく影響してくる。
つまり受験は質+量+心(志)のような
それぞれが独立している足し算ではなく、
質x量x心(志)=結果という掛け算であり、
互いに関係し合っているということ。
そして、それぞれが高くなればなるほど、
その結果としての伸びも飛躍的に高まる。
それらをトータルで支えることができれば、
早稲田への道はぐっと歩きやすくなるし、近づく。
そして4年の結果として、今の俺にはそれができる。
そう考えて、俺は塾を立ち上げることを決めた。
「塾」なんていう古めかしい言葉を使うのには理由がある。
明治維新前夜の日本には
江戸時代から続く習慣として、
才能ある学者による私塾がたくさんあった。
その中のひとつに「適塾」という塾がある。
日本史選択なら知っているだろうが、
この塾唯一の師である緒方洪庵は
当時最新の学問とされていた蘭学、
とりわけ医学に長けていた人で、
人のために一生を捧げた教育者。
そして、俺の理想の教育者でもある。
適塾からは一万円札の福沢諭吉をはじめ、
後の日本を担うことになる多くの人間が
直接、間接に輩出された。
適塾そのものも、後の阪大医学部の原型となる。
俺は緒方洪庵のように立派な人間ではないけれど、
気持ちだけは緒方洪庵にも負けないくらい、本気のつもりだ。
この塾をはじめるいま、俺には夢がある。
日本の教育、そして社会を、少しでも変えるという夢だ。
俺は、わりといい私立中学を辞めた。
その数年後には、わりといい公立高校も辞めた。
その結果、高校中退のフリーターとなった。
残されたのは、若さという希望だけだった。
俺が中学や高校を辞めた理由は、
一言でいえば、つまらなかったから。
幸いにも友達には困ることがなかったけれど、
学校の方針に馴染めなければ、そこにいてもつまらない。
勉強して成績がよければいい
という考え方に俺は従うことができなかった。
俺には、もっとやりたいことがあったんだ。
修学旅行に合わせて宿題が山ほど出された。
旅行先にまで宿題があるなんて、俺には信じられなかった。
でも、周りみんなは文句を言いつつも、持ってきていた。
これが高2年の冬。17歳だった。
俺は勉強より、もっと楽しいことがしたい。
そんな反抗心があって、高校には行かなくなった。
そうすると、もはや社会の落ちこぼれ。
日本社会では、最底辺に分類されてしまう。
でも、そこから俺は這い上がり、舞台に立てた。
幸福な偶然が重なった結果、
いま俺はとても充実した日々を送っている。
好きなことをやっていると、
社会から取り除かれてしまい、
ふつうは二度と立ち上がれない。
志を持っても、情熱に火がついても、
現実という壁にぶち当たり、
あっけなく押しつぶされてしまう。
やりたいことをやった分だけ、
大変な道を歩まなければいけないのは仕方ない。
それは自分の責任なのだから当然のことだ。
でもだからって、そこで道を閉ざされてしまうのは
あまりにも悲しいことだと俺は思う。
だから、そこに、道を作りたい。
志ある奴が、再び舞台に上がれる道を。
どんなどん底にいたって、
本気で歩めば拓ける未来があることを伝えたい。
これがこの塾を立ち上げる、俺の想い。
そして、できることならその結果として、
さまざまな幸せのカタチが認められる世の中にしたい。
俺が大学を志した理由は、
ひとつには人との出会いがあるけれど、
もうひとつには、やはり学歴だ。
なんと言おうと、それが今の日本の基準だから。
でも、そのころから俺は
学歴なんて大事じゃないと胸の内で思っていた。
金や地位や名誉があっても、
幸せにはなれないということを感じていたから。
学歴や肩書きが不要だとは言わない。
でも、それは目的ではなく、
ゴールへの、
無数にあるうちのひとつの手段に過ぎない。
ゴールと方法とを取り違えると、
気づいた時には後悔だけが残る。
そんなの、俺は嫌だ。
ゴールってなんだ?
どこにあるんだ?
それには俺はこう答えたい。
「幸せ」だよ、と。
そして、そのカタチは人それぞれだ、と付け加える。
好きなこと、幸せ、それを追い求められればいい。
誰も彼もが、幸せを肩書きや数字に置き換える必要はない。
そう言うために、俺には学歴が必要だった。
志さえあれば誰でも大学に入れるのであれば、
偏差値や学歴という尺度は相対化されるはずだ。
数字や肩書きではなく、
ひとりひとりの生き方
それぞれの「幸せ」のカタチが
もっと尊重される世にしたい。
偏差値や学歴だけがモノサシの目盛り
という価値観を変えたい。
幸せのカタチが見つかっている奴は、
そのカタチを信じて生きていけばいい。
でも、まだそれがぼんやりとしている奴にとって、
大学というフィールドは、
幸せのカタチを探したり、
創ったりするのにもってこいの場所だ。
幸せのカタチの多様性、
その大切さを伝えながら、
それぞれの幸せのカタチを追い求める手助けをしたい。
そんな夢物語を、俺は自分の胸に抱いている。
受験生にとっては、
遥かなる早稲田への道。
俺にとっても、理想、夢への道。
そこから塾の名前は、
夢への道をあゆむ塾、
道塾(どうじゅく)、とすることにきめた。
道という言葉は、
人生であったり、
老子の道(ドウ)という言葉であったり、
なにかと俺の好きな言葉でもある。
名に恥じぬ塾にしたいし、塾生になってほしい。
俺は塾生全員を
緒方洪庵に負けないくらいの気概で、
早稲田ないし志望校に受からせるつもりでやる。
塾に入るやつも、
福沢諭吉に負けないくらい強く熱い気持ちと
高く真っ直ぐな志と、
強い意志とをもった奴にこそ、入ってほしい。
一人じゃ勉強できないけれど
塾へ入れば成績が上がるだろう、
なんて志の低い奴には入ってほしくないし、
そういう心構えでは、受験は乗り切れない。
俺の塾を利用しても、無駄なだけだと思う。
根本にあるのは、
自分ひとりで、遙かなる道を切り拓いていく覚悟。
だが、そういう奴でも挫けそうになる時がある。
そんな時に、
単なる道標を超えて、
ひとりの人間として、
俺が役に立てればいいと思う。
適塾から輩出された多くの人材は、
激動の明治維新に影響を与えたというだけに留まらず、
20世紀の日本の礎を築いたといえるほどの功績を残した。
今と昔では、塾という言葉の意味が違う。
今は受験テクニックを教える場所が塾といわれる。
でも、
昔の塾は、もっと素敵な場所で、
人生を切り拓き、世をよくするために、
命がけで学ぶ場所だった。
閉塞感が漂い、もはや落ちるだけに思える日本でも、
21世紀の世界を担う人間の1人として俺は役立ちたい。
そして、そんな想いと志とをもった塾生が、巣立ってほしいと願う。
俺は全力を尽くす。
夢は叶えるためにあるんだ。
俺の志を理解して、
心に響くものがあれば、
ぜひこの塾で学んでほしい。
2007.03.31 written by u
想いは今も変わらず。
2009.3.31 written by u こと 馬場祐平
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