糸井重里、岩田聡、梅田望夫による「適切な大きさの問題さえ生まれれば。」が完結した。「ほぼ日」で連載されたこの対談を追い続けてこれで5回目になるけれど、時代をリードするこの3人の対談は読めば読むほど味が出てくる。こんなに軽やかな口調で書かれているのに、これほど中身の詰まった対談もなかなかない。
これまで、僕が感じる「問題」を解決しようとする時、僕だけの力ではできないことが、仲間と共に解決できることについて書いてきた。もはや僕の個人的な意識を超えて、大きな流れが「自然と」問題を解決する奇跡について語ってきた。「ほぼ日」の一連の対談の中で、糸井重里はそうした奇跡的な関係を「愛」と表現している。
(糸井) なんのためにやるのか、
利己的なことなのか、利他的なことなのか、
そういうことをはっきり決めなくたって、
自然とつくり手に回る人っているわけだし、
そういう目に見えない関係、
しっかりとした説明のできない関係を、
「愛」と呼ぶことだってできると思うんです。
今回の新聞掲載で道塾や僕のblogに関心を持ってくれた人が少なからずいる。道塾の記事を娘に紹介した父親もいれば、個人的に僕にメールやblogコメントやスター(ビールマーク)をくれた人もいる。mixiやblogで紹介してくれた人もいるし、おそらくは家族や友だちの間で話題にしてくれた人もいるだろう(みんなありがとう)。
世界という大きなフィールドで見れば、彼らの行動のひとつひとつは「自然とつくり手に回」っている「目に見えない関係」だと思う。思い起こせば「早稲田への道」もまた、そうした「しっかりとした説明のできない関係」としてはじまった。
僕自身の行動を振り返ると、自分のためだと思うこともあれば、人のためだと思うこともあるし、世界のためだと思うこともある。でも結局はそれらすべてをひっくるめて自分の心に生まれた感情に素直に生きているだけというのが正直なところだ。それでも僕は前に進んで来れたと思うし、少しずつでも物事を変えてきたような気がする。
勝手な推測ではあるが、僕のことを話題にしてくれた人たちの行動も、人に押しつけられた「世のため人のため」的価値観ではなく、「いいな」「たのしいな」といった、ごく私的な感情から生じた結果だと思う。でも、そうした自然な行動が誰かを励ましたり、日々がすこしいい方向に向かうきっかけになったりする。たしかにそれは愛と呼ぶに値するように思える。
(梅田) そうですね。
自分のためにやっていることが、
一方から見ると利他性を帯びてくるという。
(糸井) その理屈で、いろんなことが
整理できるんじゃないかなぁ。
その場その場での人の自然な振る舞いが
誰かの助けになって、
大きなものを進めていくという。
(5,そういう関係を、「愛」と呼ぶこともできる。)
「いいな」「たのしいな」という小さな感情の動きは、すこし勇気を出して表現することで現実へ影響を及ぼしはじめる。そうした「愛」のかけらのひとつひとつが問題を解決する力となる。それが寄り集まって大きな流れになると、目に見える形で世界をよりよく変えていくことになる。それは「愛のうねり」とも言えるだろう。
適切な大きさの問題。それはある種の人々の関心を惹く。その関心から生まれる小さな感情の動きは、寄り集まり大きな流れとなり、思わぬ形で問題を解決していく。環境破壊も、貧困も、戦争も、そうした愛のうねりによって克服されるものなのかもしれないと思う。
そう、糸井重里を見習ってすこし大袈裟に表現すれば、地球は愛で回っている。そして、僕はそのうねりのまっただ中で流されている。僕の目に見えないところで物事が進んでいる今、どうにもそう思えて仕方ないのだ…。
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