昔の僕は人を支えることが生き甲斐だった。そうしていたのは他に賭けるべきものが見つからなかったからだろう。誰かを支えることで、自分をなんとか肯定していたように思う。金八先生は「人という字は~」と言うけれど、僕は「人」の字の右下で、左上を支えることでわずかに倒れずにすんでいるような、そんな男だった。
あれから時間が経ち、僕はどれくらい変わったのだろう? ずいぶんと強くなったつもりだったが、最近になってそれは大して意味がないことだと気がついた。強くなればその分だけ肩に掛かる重さも増える。結局、「人と言う字は~」の右下にいる限り、ギリギリで立っている構図は変わらないのだ。
さて、こんなことをわざわざ書いたのは、このところ弱さを言える強さについて考えることが多いからだ。このblogも以前より多くの人が見てくれるようになった。そこでかっこいいことを語り続けるのもいいのだけれど、実際の僕はそんなに大した人間じゃない。だから「弱さ」について書きたいと思うのだ。
思えば僕が「早稲田への道」を書いていたのは、初恋の子を諦めるかどうかを悩んでいた時期だった。もしかしたら(今となっては確かめようもないが)それで暇を持て余して書いたのかもしれない。恋に破れたら仕事に打ち込むのがいい、というような感覚で。ただ、仮にそうだったとしても、それで何かが変わるわけではない。
人間、死ぬまでそういう状況は変わらないのだと思う。いくつになっても、どれだけ有名になろうと、金持になろうと、外から強く見えようとも、僕らは孤独な生き物であり、ギリギリで生きていくものなのだ。どんな状況におかれても、そのことに自覚的でありたいと思う。逃げ出さないでいたいと思う。それを見失ったら、気づいた時に後悔するだろうから。十分過ぎるくらい悲しみに彩られている人生だから、それはできるだけ避けていきたい。
「リーダーは勇気を奮い起こして、ひたすら誠実に目標を目指して邁進していることを示せ、ということだ。中略。その一方、チャーチルでさえ、つまりお決まりの演説で日頃その言葉が最もよく引用される二十世紀のリーダーでさえ、常に真剣だとは限らなかった。チャーチルは第二次世界大戦中、イギリスの戦争継続能力に対する疑念が頭をかすめたとき、それを明かそうとはしなかった。酒におぼれ気弱になっていることも、公言しなかった。チャーチルにしてもリンカーンにしても、その異常な職務を遂行している間ずっと悩まされ続けたしつこいうつ状態を公の場で見せることはなかった。アメリカ国民は、大統領が過ごしている芳しくない日のことなど知りたいとは思っていないのだ。」 (ジェリー・ポラス他『ビジョナリー・ピープル』 p261)
ジェリー・ポラス。あんたにそんなこと言われなくたって知ってるよ。でもね、僕は大統領じゃない。そんな非人間的にはなれない。だから言い続ける。強くなったからって、弱さがなくなるわけじゃない。ただ飲み込めるだけなんだ。それを隠していても仕方ない。僕は一人の人間として、僕を知ってくれている人に誤解されたくはない。僕は神でもなければ、決して強い男でもない。タフでありたいと願い続けるだけの、ひ弱な酔いどれに過ぎない。
ただ、誰よりも願い続けることだけはするよ。人と言う字が、たとえどんなに重くなっても倒れないことを。それが叶うとも思わないが、倒れるとしても自分の美学を貫き通して死にたいから、やるべきこともやると思う。性格上たまにさぼることもあるかもしれないし、よく酔っぱらってるかもしれないが、とりあえず今はまだ酒に溺れるようなことはしていないから大丈夫。
読んでくれてありがとう。今日も頑張ろう。
【フォト】 新聞掲載後の昼間、限界を迎えた道塾スタッフ+庄司。
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