2008年11月6日

「削ぎ落とす」

 という言葉を久しぶりに聞いた。ある子と飲んでいる時に聞いたのだけれど、その子は大隈塾でのスピーチでも語っていたようだから、直接聞いた人もいるのかもしれない。

 人が何かを欲しようとすれば、曖昧なままではいられない。エゴを引き受け、自分を尖らせていく必要がある。その過程では激しくぶつかることもあるし、傷つけることもあるし、結果として何かを失うこともある。

 「受験時代、早稲田に受かるために、付き合っていた男と別れた」と、別の子が言うのを聞いた。誰だって、できることならそんな選択肢は取りたくない。けれど、限られた時間の中で生きている僕らにとって、何かを選ぶためには、何かを手放すしかないのだ。

 僕自身、依然と比べればだいぶはっきりと物を言うようになった。これでもまだ曖昧だと自分では思うけれど、このblogもその一つだ。中には僕の言葉を否定的に受けとめている読者もいるだろう。実際、書いたことに対してケチをつけられることもある。

 でも、それは仕方ないことだと思う。削ぎ落として行く中では、どこかで衝突せざるをえない瞬間、傷つけざるをえない場面はやってくる。曖昧な言葉、曖昧な選択肢の選び方をしていればそれは避けられる。でも、僕は敢えて断言していく生き方を選んだ。

 削ぎ落とすこと。明確にすること。尖らせていくこと。断言していくこと。

 そういう中で、なお共に生きられる人と出会える喜びがある。それは失うことによる悲しさを埋めることはできないにせよ、それと釣り合うだけのものをもたらしてくれる。どれだけ大きな炎を燃やせるかという生き方をするなら、そうした悲しさは飲み込んでいくしかないのだ。

 後悔している暇はない。大切なのは、早く次の炎を燃やすことだ。